もうだいぶ前の話ですが、ちょっとした残念経験がありました。
それは、県行政書士会の考査会。会統括のとある業務について人数限定での募集があり、「説明会+ペーパーテストを行うから来てね」という形で希望者に招集がかかりました。
で、何が残念だったのかというと、集まった人の服装です。会場を埋めた姿を見て、ぼくは思ったのです――「なんだよ、これ!」と。
何しろ仕事をもらえるかどうかの試験。ならばふさわしい服装というものがあるはずです。ふだんはノーネクタイのビジネスカジュアルで過ごしているぼくですが、このときは迷わずスーツを着て行きました。ところが、会場ではこういう人間は少数派だったのです。単なる普段着である人、さらにもう一段緩い――日曜日のまったりスエットとかの――人。そして年配の人の中には、“お爺ちゃんのお散歩”そのままとしか言いようのない人までいるほどでした。
そのときの自分の気持ちをどう表現したらいいのでしょうか。冒頭では「残念」と書きましたが、感情という点では少し違います。いちばん近いニュアンスだと「恥ずかしい」でしょう。ぼくが日常相手にしているゲーム系の専門学校生だって、そのあたりはわきまえています。就職用の説明会なら、特に指示をしなくてもみんなスーツなのです。何しろ行政書士会ですから、平均年齢はとても高め(ぼくですら中堅、下手すると若手)。なのに「ゲームにうつつを抜かしている、今時の若いやつ」だって持っている常識がない、そういうことではないでしょうか。
実は、その少し前にも、同じ傾向の体験がありました。年始にあった県行政書士会の賀詞交換会です。
こちらの会場は、一流ホテルの大きな宴会場。きらびやかな照明の下、県知事・市長から衆参県会市会の議員まで多数の来賓が集まった、華やかな宴席でした。
ところが、ここでも信じられないような格好でうろついている人がいたのです。純普段着の人やシャツの首元をルーズに開けたままの人。さらに作業現場で着るような防寒コートを羽織ったままの人もいる始末でした。考査会に比べれば少数派ではあったのですが、会場が華やかなだけに、目立つという点では格段に高いものでした。
服装には「内面を見せる」という側面があり、「人とは違う個性」を示すためにあえてドレスコードを外した格好をするということも、本人のリスク負担の範囲内で認められるものでしょう。ただ、そういう攻めた意味合いでの“場違い”な人というのは見当たらず、実際に会場で目についたのは、単にドレスコードを気にしていない―おそらくその存在にすら気づいていない―風の人ばかりです。
こういうことで、行政書士は専門職なんて名乗っていいのだろうか、そんなことすら思いました。行政書士は行政書士の集まりにしか出ませんが、知事・市長や議員さんは違います。弁護士や税理士の集まりが同様だとはとても思えず、そうした違いを前にして果たして「行政書士も士業の一つ、優劣はない!」なんて思ってくれるものでしょうか。
外観で人を判断するのはいけない――この命題はよく目にします。ただ、これが妥当するのは、本人にはどうしようもない部分に限定されるべきでしょう。人は、心の中を直接見ることができません。外観を通じて見せるしかないのです。場にふさわしくない服装というのは、単に「自分がどう見えても構わない」ということを超えた意味を持ちます。「自分の服装を見て、他人がどんな思いをしようが、構わない」ということです。これが本人に責任がないはずはないでしょう。
考査会の方はそれも含めて選考すればいいだけのことですが、交歓会については来賓諸氏に与える影響を考えると、個人の問題とすましているべきでもありません。あるいは招待状に、比喩としてのそれではなく、明文でドレスコードを――例えば「ダークスーツでお越しください」とか――を書かなければいけないのかも知れませんね。