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週刊文春、ブラボー!(2)

 好きなものがあると、自分をそこにあてはめてみたくなるものです。
 かつて文学少年だった頃に夢想していたのは、夕刊フジのエッセイでした。今ではもう終わっていると思いますが、時々の流行作家が入れ替わりで書くエッセイが同紙に連載されていたのです。挿絵は一貫して山藤章二さん。本文を読んでからネタを考えるというスタイルで、いわゆる挿絵の枠を超え、見事な突っ込みを入れたりしていました。エッセイ自体の書き手を例示すれば、吉行淳之介、山口瞳、筒井康隆……といった諸先生。まあ夕刊フジはさすがにとっていなかったので(三河あたりじゃスタンドでの購入も不可能)、実際には新潮文庫になってから読んでいた訳ですが、そのユーモアとウィットに富んだ筆致に魅せられ、「いつか自分も山藤画伯にいじられたい!」なんて夢見ていたのです。同じこと思ってた同世代人も多いのではないでしょうか。
 ただ、いい大人(しかも大人としても大ベテラン)になってみると、こういう気持ちではものを見られないのが現実です。今話題にしている週刊文春のコラムにしても、これは同じ。諸先生の書いた文章を読むたびに「あー、オレには無理だなあ」と感じます。理由はこのブログのバックナンバーを見てもらえばわかるとおりで、週1なんてペース、とてもとても…。やはりため息しか出てこないのです。
 なぜそうなってしまうのか。まあ、結局ぼくがその程度の活動しかしていないからなのでしょう。それが作家やイラストレーターであれ、あるいは将棋指しであれ、一般人の目から見えている以上にプロはいっぱい仕事しているということですね。そうだからこそ、こぼれだしてくる「書くこと」も途絶えることがない。ぼくは行政書士ですが、この意味では二流にも届かない存在です。
 秀逸なコラムをコンスタントに書くというのは、ある意味専門家の「余技」なのかもしれません。本技をしっかりやった人間だけがたどり着ける領域ってことです。徒然草にも、余興の練習に熱中するあまりお経が読めなくなた坊主の話が出てきますが、今のぼくがしなければならないのは、やはりお経の方。そして作家や芸能人ではないので、私的日常を描いても無意味。行政書士としての本来の仕事をもっと増やしていかなければ。著名人が週1連載をこなしていけることも、おそらくは仕事の多さがあると思います。密度の濃い時間の中でジョブをこなしていくことが習慣化しているのでしょう。この意味でも、ぼくはまだまだ二流以下です。
 まずは、一流の職業人をめざすことですね。ゴールは、週刊文春からオファーが来るようなメジャーってことで。

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