著作権法というのは、毎年のように改正が入ります。とりわけダウンロードが違法になる範囲を拡張した2020年6月の改正は、インパクトの強いものでした。
この文章は、その改正法成立の直後にまとめたものです。文章自体が長いことに加え、既に施行されているのに通常のブログにアップしたのでは紛らわしいという事情もあって、こちらに掲載します。なお文章はほぼ発表当時のままで、時間経過にともなう加筆修正等は行っていませんので、ご承知おきください。
はじめに
頭に血が上るとろくなことはありません。海外のSNSには、そういう投稿に対して警告を出す機能が付いているそうです。送信ボタンを押すと「ほんとうに大丈夫か? これ送信しちゃうと、取り返し付かないぞ」なんて感じで警告してくるわけですね。こういうものが本当に効果的かどうかというと、まあ「format c:\」なんて自爆コマンドを実行してしまった経験のある古いDOSユーザーなら、苦笑いするしかないのですけど。
さて、前回の更新からまるっと一ヶ月もあいてしまいましたが、その間サボっていたわけではありません。実は、まさにこういう自爆コマンド的な文章を熱く書き進めていたのです。
長い間、知財界の話題を集め続けていた著作権法改正が、6月5日、ついに成立しました。主な狙いは、海賊版サイトの対策です。その具体的な手法が、リーチサイトの禁止と、ダウンロードの違法化でした。
新聞報道を通じてその概要を知った私は、まず唖然としました。実際に最初に上程されたのは2019年の3月で、その問題点に対する世間の反発から、文化庁も一度は引っ込めたのです。それが秋に改めてのパブリックコメントの実施があり、“彼ら”が決して諦めていなかったことが明らかになりました。その上で今年の3月、改めて息を吹き返してきたわけです。
そして4月には衆議院を全会一致で通過します。
「おいおい、本当にこのまま可決されちまうのかよ!」
焦る中、参議院での議論も始まります。かかる現実を前にして「このままではニッポンはダメになるッ!」と憤慨、そして猛烈な勢いで、熱い文章を書き出したのです。その結果、今月中頃には、雑誌に出したら載せてもらえないほどの分量の、アジテーションテイスト溢れるコラム群ができあがりました。
さあ、後はアップするだけだ……というところで改めて各種資料を確認したところ、びっくり。ここでようやく自分の勘違いに気づいた訳です。
今回、特に助けられたのが、山田太郎参議院議員の発信するYouTube動画でした。単に結論だけではなく、立法過程についても深く後悔されており、たいへんためになります。多忙な議員活動の中、このような発信をしてくださることに、深く感謝します。
まあ、今になって反省してみれば、もっと早い段階で原資料にあたるべきでした。ただ、役所が発表する文書というのは、叙述トリックが仕掛けられていることが多く、読み進めるためには大変な注意力を必要とします(しかも、注意して読んだ結果誤読に誘導されることもしばしば!)。今回、私同様に熱く勘違いしてしまっていた人も、少なくないのではないのでしょうか。
そこで、気を取り直して、今回書いた文章を公開することにしました。もちろん、そのまま載せると恥臭いばかりでなく、悪性のミームにもなってしまいますので、ちゃんと全面的に手直しして、実際の改正案に沿った内容とします。
何が変わったのか
今回の改正の狙いは先述の通り、(1)リーチサイトへの対策と、(2)ダウンロードの違法化です。
まず、1についてです。例えば、著作物をアップロードしているサーバー――これを『ストレージサイト』と言います――があったとします。これ自体は現行法でも何の問題もなく違法です。ただ、ストレージサイトの場所に関する情報(URL)も、同様に違法にできるのでしょうか? 現行法ではこれを違法とすることが解釈上難しく、ゆえに有効な追求・取り締まりができないとされていました。今回の改正では、それを直接狙ったのです。
そして2について。日本法は一般に「売り手に厳しく、買い手に甘い」傾向があり、他人の著作物を無断でアップロードすることは違法でしたが、それをダウンロードすること自体は、一般的には違法とされていませんでした。音楽そして映画という形で、著作物の種類を限定して、違法としていたのです。今回の改正では、この限定が取り去られ、画像はもとより、文章表現や地図・設計図からダンスや建築に至るまでの、全ての著作物を対象にしたものに拡大されました。
ただ、追求/取り締まる側にとって便利になったといっても、それはいいこととは限りません。
例えば、広すぎる定義の問題があります。
言葉というのものが持つ本質的な曖昧さをよそに、法の実施には意味の厳密な特定を必要とします。リーチサイトを取り締まるのなら、対象となるリーチサイトをしっかり定義しなければならないのです。しかし、その定義が限定的なものだと、それとは微妙に違うものを作られてしまった時に手が出せません。
「え、だってこれリーチサイトじゃないっすよ」
こんな言い逃れを許さないために、なるべく広くカバーできるようにしておいた方がいいのですが、では、“ストレージサイトへに誘導した場合は全て処罰対象である”なんてしてしまうとどうでしょうか。
「私の描いたマンガです。なるべくたくさんの人に読んで欲しいので、どんどん広めてください!」――こんなキャプションを鵜呑みにしてURL拡散したところ、実はその種のサイトだった……なんて場合もあるでしょう。前述のような規程だと、こういう場合も有責ということになってしまいます。これでは安心してネット発信をすることができません。
そして、2の件にも、同様の怖さがあるのです。
ダウンロード対象範囲の一般化自体は「まあ仕方ないね」というところなのですが、問題はこれに関連して新たに範囲に含められることになったものです。改正案では、ダウンロードばかりでなく、スクリーンショットも禁止の対象とされたのです。
――対象著作物が画像であった場合、ファイルをファイルのままでダウンロードする行為だけを禁止していたのでは足りない。画面のスクリーンショットという形で著作物を保存した場合も、同様に取締対象としないと片手落ちである――このような論理には、一応の妥当性があります。しかし、仮に「他人が権利を持つ著作物であることを知りながら行ったスクリーンショットの保存は違法」と規定してしまうと、どうなるでしょうか。
現代のコンピュータ環境で、著作権のないものが画面に映し出されている可能性は、むしろ例外的と言えるでしょう。例えそれが文字だけの記事だとしても、その文章はほとんどの場合著作物です。そして私たちユーザーはその事実を知っている者ということになります。
となると、このような改正は、実質的に「スクリーンショット禁止規定」になってしまうのです。
スクショ一般は違法化されていない
ここで、大慌てで断り書きを入れておきますが(文章構成的にはもっと後ろの方で書いたほうが効果的なんですが)、今回可決された改正案は、スクリーンショット一般を禁止するようなものではありません。
まずダウンロードに関して言えば、「違法にアップロードされたものであることを知りながら行うダウンロード」が違法とされているのであって、そうでないものは対象から外れます。単に「他人の著作物をダウンロード」することとは、されていないのです。
これは、スクリーンショットの場合も同じです。「違法にアップロードされたものであることを知りながら行うスクリーンショット」が違法になるということです。合法的にアップロードされたもの(&そう推定されるもの)に対しては、それが他人の著作物であることを承知の上でスクリーンショットをとっても、違法とはなりません。もちろん、そうして確保した画像データを、私的利用の範囲を超えて利用すれば、(これまで通り)著作権侵害になります。しかし、自分だけで使う限りでは、問題ありません。
このようなことを強調するのは、他ならぬ自分のミスリードが、まさにそういう方向でのものだったからです。ただ、自分に向けられた筒が銃口のように見えたのなら、必死に逃げることは恥ではありませんよね。私が大慌てになったのも、スクリーンショット一般が違法化された場合の破壊力の強さゆえなのです。
新聞や雑誌など、情報源が主に紙媒体だった時代、知的生産者はせっせとスクラップブックを作りました。記事を切り抜き、冊子に貼り付けて保存するのです。現代の知的生産者にとって、スクリーンショットはこれと同じ意味を持ちます。禁止されるというのは、ほぼ死活問題に近いものがあるでしょう《*1》。
でも、法律の制定者が次のように思い込んでいたら、どうでしょうか。
「スクリーンショットなんてとるやつは、
マンガとかイラストとか、保存したいだけなんだろ?
そんなオタク連中の権利なんて、守ってやる必要ないよ。
出版社からきちんと買えばいいんだよ」
適切にデザインされていないシステムは、とてもやっかいです。適切なデザインの前提にあるのは、適切なユーザーモデルの構築。ゲームデザイナーが工業デザインを知っているべき理由は、この辺にあります。プレイヤー像を「こうだ」と決めつけた上で、その人の満足の最大化を目指すのがゲームデザイナーなので、決めつけ自体が間違っていたら、ひどく的外れなものになってしまうのです。例えば、ブレーキとアクセルを自由にアサインできる車なんてのは、社会不安の材料でしかありませんよね。ユーザーモデル的に、そこだけは動かしちゃいけない部分です。
法律というシステムも同じで、使い手がどのようにそれを使うのかを想定して作っていく必要があります。ただ、不適切なゲームは遊ばなければいいだけの話ですが、法律は不適切であろうがなかろうが、全国民を拘束します。そのため、単にやっかいというだけではすみません。
*1 禁止されることはほぼ死活問題 ウェブ上の記事をまるごと(HTML&CSSや画像データも含めた形で)保存するなんてこともあります。この方が後で検索がかけられるなど使い勝手がいいので、事情が許す限りはこっちを使っています。これも現代のスクラップブックと言えるでしょう。私は、Evernoteとの連携をベースに、ブラウザにそういうプラグインを入れています。当然こちらの方が形式的な著作権侵害度は高いわけで、スクリーンショットが違法化されたら、生き残る余地なんてないでしょうね。
なぜ二次創作まで俎上に?
今回の改正案は、決して大雑把なものではありません。ただ、2019年に登場した最初の改正案は、かなり危なっかしい代物だったと言えます。特に、海賊サイトの取締という文脈なのに、二次創作までも言及されたことは、かなりの混乱の元だったと言えるでしょう。これではまるで二次創作を海賊版と同一視してまとめて禁止しようとしている、そうとられかねないような括り方でした。
なぜ二次創作が話題に出てきたのか、ここで、はっきりさせておきましょう。
改正案において第一義的に違法とされるのは、「著作権を侵害したものを、それと知りながらダウンロードすること」になります。ここで前提になる「著作権を侵害したもの」が何なのかが、実は大きな問題です。いわゆる海賊版に限れば「複製権」になりますが、法的には著作権というのは多数の支分権によって構成され、複製権もその一つに過ぎないのです。例えばいわゆる盗作は翻案権の侵害として提訴されることが多いのですが、これもまた著作権の侵害です。そしてこの射程は無断で作られた二次著作物全体に及ぶことになります。
もともと日本法にはパロディを免責する規定はありません。そのため、全ての二次著作物をいったん包括的に違法の枠にくくった上で、事案ごとに個別的に免責されるかどうかを決めていくという構造になります。これをざっくり言えば「パロディといえども原則は違法なコンテンツ」となり、それを承知の上でダウンロードする行為はこの禁止規定に該当するということになってしまいます。
また、当初の改正案では、例えば「アニメキャラの画像を無断で使用したSNSのプロフィール欄」なんてものまで、スクリーンショットすることが違法となる「該当品」として例示されていました。また、それをメインにするのではなく、ただ撮ったスクリーンショットの背景の中に映り込んでいたような場合までも含むとしていました。しかし、教員業もしている身として言えるのですが、学生たちの公開するプロフィール画像は、はっきり言って大多数がそうしたものです。自分の顔写真なんて誰一人載せていませんし(学校的には、保安上推奨すべきことでもありますね)、自作の画像を載せている者ですら、グラフィックコースの一部の学生だけです。つまり、彼らのプロフィール画像が含まれる画面をスクリーンショットにしただけで、違法なダウンロードと同等に扱われてしまうということになります。
これらの点について配慮しないまま法改正を行ってしまうと、目的である「海賊版対策」の域を確実に超えた法律ができあがってしまいます。
2020年改正案では、このようなものに関しても、改正案でははっきりと違法化の対象でないことを明言しています。それで、二次創作についてまでが言及されているのです。
そもそもなぜそれがあったのか
2019年に始まる今回の改正は、直接的には「漫画村」問題に端を発しています。最新刊も含めた多数のマンガ作品をデスクトップ上で閲覧できるサイトが登場、多くの読者を集めました。しかしこれらの作品は無断でアップロードされたもの。これによって侵害される作者の権利を守るため、著作権法を改正をし、読者が行うマンガ等のダウンロード行為についても法で禁止する……として、2019年の3月頃、改正案が提出されたのです。
その漫画村ですが、法律問題を離れても、あれこれと興味深い論点を提供してくれます。
ぼくが思うのは、そもそも、なぜそれが大きく育ってしまったのか、ということです。無料サイトですから、ダウンロードで直接収入をえることはできません。インカムは、基本的に広告収入だけ。ただ、広告というのは出稿してくれる主がいなければ収入になりませんし、その前提として大量の読者が必要です。
では、なぜ大多数の読者層は、マンガという、お金取って販売している商品が無料で提供されるサイトの存在について、疑問を感じなかったのでしょうか?
「え? だってインターネットって、そういうもんでしょ?」
これにつきますよね。
今の世の中、無料のコンテンツが実に多いのです。
まず、読み物。インターネット上の読み物でお金取っているのは、大手メディア企業のサイトか著名人ブログぐらいのものです。こういうこと書いているこの文章だって、無料コンテンツの一つです。私は(もうずいぶん前ですが)ライターとしての仕事もしていましたし、著書というのもないわけでもありません。でもここのような読み物見て「なんでお金取らないの?」と疑問に思う人は、多分いないでしょう。もっとリニアに有償であるべきもの――例えば企業の株価情報とかですら、証券会社のサイトに行けば事細かなものまで無料で手に入ります。こんな状況ですから、最新刊まで含めたマンガが無料で読めるサイトというものに、特に疑問を感じることもないわけですよ。
さらに言えば、ゲームソフトですら、無料で遊べるものが標準になってしまいました。当初はモバゲータウンのようなミニゲーム級に限られていたのですが、やがてメインストリーム級のもの――ファミコン時代の4・5千円から始まり、その後は数千円程度で推移していた水準のもの――すらも、無料モデルが導入されるようになりました。この場合、ゲーム会社は、基本プレイを無料にする代わりに、追加アイテムなどに対して課金します。でもこれを批判してくるファンが多いのです。まあ多くはネット上の意見で、本質的に「放言」です。昔のPCゲームでは「こんなダメなゲームなど、到底買う気がしないだ!」なんて、違法コピーで遊んでいたことを白状してしまうような作品批判がよくありましたが、そんなものでしょう。
でも真顔の意見の中にも、それはあるのです。ゲーム会社に、ファンからのこんな要望がいっぱい舞い込んでいることは事実です。
「ぼくは御社のファンです。でも不満な点があります。
それはソフトが有料だということです。
どうか無料にしてください。
アイテム課金もしないでください」
こういう子たちを笑うことは簡単です。でも、ぼくたち大人世代も、真剣に反省しないといけないですね。
そもそも、インターネット自体が無料ですが、これにちゃんと疑問を感じていたでしょうか? 昔のパソコン通信時代を知っている人は、当初感じた違和感を思い出してみてください。ニフティサーブじゃ1分あたり10円なんて勢いで接続料をとっていたのですよ?《*2》
もちろん「フリーランチはない」というやつで、一見無料に見える場合でも、ちゃんと費用を負担している当事者がいます。そして、その意図が、身銭切って世間に対して奉仕……なんてことはなく、ちゃんと回収する構造になっています。本当であれば、それを見極めなければならなかったのです。でも実際には「やった、一晩中つないでてもタダじゃん!」なんて喜んでしまっていたのです。まさに朝三暮四のサルですね。
*2 1分あたり10円なんて勢いで接続料 これは通話料ではありません。電話回線の向こう側にいるサーバー管理者(一応プロバイダに相当します)に対して支払う料金です。NTTには、これとは別に通話料(3分10円)を払うのです。なお、回線速度は9600bpsでした。
無駄に怖がっているわけじゃない
今回、スクリーンショット一般が禁止される事態は、避けることができました。これは、著作権を深く知る人(しかも、業界の利権ではなく国民の利益ベースで問題をしっかり考えている人)が、立法過程の重要なポジションに居てくれたことによるものです。その尽力には頭が下がる思いです(私はというと、パブコメにすら時間切れで参加できませんでした。情けない……)。
とはいうものの、一方で「油断できない」とも思っているのです。
かつて……というほど大昔ではありませんが……Windowsフォンというスマートフォンがありました。iPhoneでもAndroidでもない第三の選択として注目を集めながら、発表と同時に盛り上がりは萎み、発売時点で既に“オワコン”という、悲しすぎる結末を迎えた端末です。理由は、まさにここにあります。マイクロソフトは、スクリーンショットの機能を実装しなかったのです。同社の解釈では、スクリーンショットは著作権法上違法な行為を助長してしまう機能で、載せられているべきではないと判断したのですね。
どういうマーケティング的判断でそうしたのでしょうか。ただ、市場は正直です。「このような不便さを強制しても、ユーザーは去って行かないはずだ」という期待(あるいは侮り)は完全に裏切られました。
実際のところ、考えられる最大の原因は、メジャー意識でしょう。――当社こそがIT界のスタンダード。「基準」を作るものとしての社会的責務がある。それは違法な行為をシャットアウトすることである。当社は業界の盟主として、この活動の先頭に立たねばならぬ――こういう中華意識に基づいて仕様は定められ、市場にそっぽを向かれたわけです。まあ、マイクロソフトのプロダクト決定権者がよほどITスキルの低い人なのか、それともスマートフォンユーザーのそれをよほど低く見積もっていたのかの、どちらかだったのかもしれませんが。
市場が概ね固まってくると、またぞろこの種の中華意識が登場してきます。それは社会的圧力とも合致しますし、またメーカーがコンテンツホルダーとの距離感を縮めている現状を鑑みると、現実的問題です。
かつてウォークマンで圧倒的なシェアを誇っていたソニーは、デジタル版を出すに当たり、OpenMGという規格を実装しました。これは「曲を購入した人が保有できるのは1コピーだけ」という形の著作権保護システム。パソコンに保存してある楽曲をウォークマンに移すとパソコンからはデータが消え、戻すためにはウォークマンからデータが消えるのを受け入れなければならないという、およそユーザーにとっては不便極まりない仕様だったのです。しかし、コンテンツホルダーとしての側面を持つ同社はこれを実装してしまいました。その結果もたらされたのが、iPodの大成功でした。MDの時代まで持っていた優位を捨て去るばかりか、本来得られるはずだった先行者としての地位も、音楽産業自体のヘゲモニーと一緒に、アップルに譲り渡してしまったのです。
今、スクリーンショットができない端末というのは、スマホ/タブレット/パソコンを問わず、存在していません。もしそんなことをしたら、失敗した先例の二の舞ですから。しかし、市場というのはいつかは成熟します。そのとき本当の「独占」が現れれば、もう安心することはできません。いつまたこうした愚かな選択をするのかわかりませんし、その時にはなすすべもないという可能性もあるのです。
捨て台詞ってわけじゃないけど
長く続けたコラムも、そろそろおしまいにします。
規制を強化する法律というのは、ほとんど年中行事のように出てきます。そのときよく聞かされるのが「この規制の目的はこれこれこういうことで、一般人の行為までを対象にしているわけではない」といった類いのステートメントです。
例えば、著作権法では、著作権侵害に対して刑事罰を規定しています。これが、最高刑が懲役10年&罰金1千万円の併科という、かなりの重罰なのです。ちなみに刑法の重過失致死罪が5年&100万円ですから、マンガのコピーは人を死なせるよりも重い罪ということになってしまいます。どう見てもバランスを失した重罪化なのですが、このときは次のようにアナウンスされていました。
「この改正のターゲットは反社会勢力など組織的に違法行為を行っている者で、一般の個人ユーザーを摘発することは考えていない」
実際にそういうつもりなのかもしれません。ただ、この種の言い分を前にすると、フリーのクリエイターだった時代に依頼主企業から突きつけられた契約書を、私は思い出します。
「まあ、いろいろ書いてありますけど、この通りに適用したりはしませんから。文書にはこう書きましたけど、実際にはこう扱いますんで」
契約というのは、法律上、両当事者の合意によって成立します。しかし、担当管理職(結構上の方)である彼は、ぼくの意見を全く聞くことなく契約書を作ってきました。それは、本来別の種類の仕事のためにあったものを無理やり語句だけ入れ替えて対応させたようなもので、およそその件の仕事に向いた内容ではありませんでした。ところが、これに対するぼくの側からの提案に対しては、全てゼロ回答。「条項は変えられない」の一点張りでした。そして、それによって生じる不都合の指摘に対して、彼はしれっとした顔でこう答えたのです。
現実問題として、当時のゲーム産業なんてのはそう開かれた社会ではなくて、実際こういう場合でも、何の問題も発生しませんでした。でも今ならどうでしょうか? その会社が倒産して、有している知的財産権が競売にかけられる可能性があります。また、合併や事業譲渡によって、契約上の権利義務関係が第三者に引き継がれる可能性もあります。その相手方は、ゲーム産業界のプレイヤーとは限りませんし、そもそも日本企業である保証もありません。
ともあれ、法律というのはしょせん人の作るもので、作り手の能力という制約を超えられるものではありません。常に状況を見ておく必要があり、特に私自身としてはその責任が重大なのだと、痛感しているのです。(2020年6月)