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ノーベル文学賞はあの人に!

 先日、ノーベル文学賞の発表がありました。ほとんどの場合、そのニュースを通じて初めて聞く名前の人で、まあ自分の教養の狭さを思い知ったりもするのですが、マスコミの人たちも基本は同じなのでしょう。有識者への電凸も済んだ夜のニュースではそれなりに細かなプロフィールも語られますが、速報時点で伝えられるのはほとんど名前と公式発表だけです。
 さて、最近はそれほどでもないものの、一時期はこの時期になると“前夜祭”が鬱陶しいほどでした。それも、一人の固有名詞とセットで。
  「今年こそは村上春樹!」
  「村上春樹、授賞なるか!?」
  「海外のブックメーカーが村上春樹を推し!」
 こうなってくると、あたかも村上さんがノーベル賞を受賞するのは規定の事実で、後はどのタイミングで…の問題であるかのように思えてしまいます。でも、それはあくまでも日本の側でこしらえた“常識”。授賞側には関係ありません。
 なんで、こんなことになってしまったのでしょうか。何と言ってもノーベル賞。マスコミ的には無関係を決め込むわけにも行かず、サイエンスの賞と同じように「日本人なら誰がとれるのか」を絡めて話題にする必要が出てきます。ところが、ノーベル文学賞を受賞するためには、欧米で広く知られている作家でなければなりません。
  「じゃ、日本人作家、ほとんどダメじゃん!」
  「ま、欧米でも知られているメジャーって言ったら、
   村上春樹ぐらいじゃね?」
 この結果、日本のメディアで、ノーベル文学賞は常に村上春樹という固有名詞とともに語られ、それが繰り返された結果、いつしか「村上春樹はもうすぐノーベル賞とれる」という国内世論が形成されてしまったのではないか、そう思うのです。
 私自身、村上春樹氏は大好きで、ハードカバーで新作を買う数少ない作家となっています(小説はハードカバー、エッセイは文庫本。たぶん刊行済コンプリート)。好きである理由はいろいろあれど、基本は「面白いから」。同じことを思う人が国内にも何百万人かいて、新刊が出れば必ずベストセラーです。
  「こんなに日本人は持ち上げてるんだぞ、
   文学賞選考委員はなんでいつまでも無視するんだ!」
 愛国者たちの叫びも聞こえようというものです。でも、ノーベル文学賞の選考基準や賞自体が継続されている目的はよくわかりませんが、売れているからふさわしいというのは、明白に違います。


 実際のところ、小説という作品カテゴリーは、既に人類文化の中心にはいません。ノーベル賞の側ももうそういうこだわりはなくなっていて、小説以外の媒体にも授賞しています。近年では、ボブ・ディランなんて例もありました。となると、日本人としても、新分野を開拓してアピールしたほうが賢いのではないかと思うのです。
 そこで推したいのが、宮崎駿さん。大人用と子ども向け、通俗性と芸術性、そしてリアリティとカリカチュア…相反するものを一つの作品にまとめ上げる卓越した能力を通じて、世界中の大衆の心を掴んだたアニメ映画監督。これ、推しとして結構いけると思うんですが。

ノーベル賞