3月もいよいよ終わりです。今年2020年は例のアレのおかげで何かとたいへんなのですが、4月から意気揚々と法学部の門をくぐる人も大勢いることでしょう。どのくらいいるのかなと思ってざっと調べてみたところ、旧5大法律学校《*1》の定員を足すと6600人でした。これに東大慶応一橋を加えると8000人というところでしょうか。都内の伝統校だけで、武道館でないと収まらないほどの法学徒が誕生するわけですね。
まだド昭和だった頃の話ですが、私自身も晴れがましい気持ちを抱きつつ門をくぐった若者の一人でした。もしあの頃の自分に電話が通じるのなら、話してやりたいことはあれこれとあります。そんな気持ちで、4月から晴れて法学部に入る方に向けて、ちょっと役に立つかもしれないアドバイスをしてみましょう。
*1 旧5大法律学校 明治期に、弁護士(初期は代言人)育成のために旧制専門学校として創立した私立の法律学校を、この名で呼びます。具体的には、早稲田、明大、中大、日大、法政、専修の6つ。5大といいながら6つあるのは、途中で入れ替えが入ったからです。
まず入学時点で肝に銘じておいて欲しいことがあります。「法学部を出ていながら法律について素人であるというのは、とても恥ずかしい」ということです。
入学前の現時点では実感できないと思いますが、一般的な法学部生の能力はかなり限定的で、卒業してもほとんど素人と言っていいレベルの法的スキルしか持っていません。実は法教育界には「リーガルマインド」という言葉があります。「法学教育においては、個々の条文の知識よりも、法的なセンスや思考法を身につけさせる方が重要である」という考え方を意味しています。現実問題として、大量の素人法学士を世に送り出している大学当局にとっても実に都合のいい概念で、ここにおいて学生と利害は一致していると言えるでしょう。
しかし、それでいいものでしょうか。仮に医学部が同じようなことを標榜していたら?
「本学は学問としての医学を学ぶ機関です。
実際に医療ができるかどうかは問題外、
メディカルマインドを身につけた社会人を
世に送り出せればいいのです」
これはないですね。間違った医療を施せば人は死にます。
法律だって、本来は同じです。間違った法務を適用すると、人は破産するのです。医師が中途半端な知識では許されないのと同じように、法律家もまた「だいたいわかる」「得意科目なら優秀」では許されません。むろん単なる学部卒が法律家と同等の知識を必要とするものでもないのですが、一般人よりはそこに近い存在でないといけないのです。この国で現実に適用されている制定法を一通り理解していることが、法学士に対する最低限の社会的要請といえるでしょう。「細かな法律知識なんて六法全書に書いてあるから、憶える必要なんてなし!」とうそぶく人もいますが、同じやり方で英語が話せるかどうか考えてみてください。
という訳で、法学部に入った以上、ちゃんとした法的スキルを身につけましょう。先輩たちも先生たちも「そんなこと不要だよ」といってくるかもしれませんが、聞く耳持たないように。多数決で何を決めようと、“それでも地球は回る”のです。
では、具体的にはどうすればいいのかということですが、その答えが「行政書士試験」です。
「法学士たる者、正確で体系的な実定法の知識を持っていなければならない」というのが、ここまでの話でした。そして行政書士試験を挙げたのは、その具体的な表現です。「行政書士試験に合格できる水準」というのは、きちんとした法知識のためのメルクマールとして最適であると思うのです。
行政書士の試験科目は、憲法、行政法(地方自治法を含む)、民法、商法・会社法です。いわゆる「六法」としては刑法と訴訟法がすっぽり抜け落ちていますが、社会での用途としては必要十分と言えるでしょう。また、判例通説の立場だけ理解できていればいいのも、入門者としては福音です。大学の先生は教師である前に研究者なので、自説を前提に授業をしますし、それが通説と異なっていた場合には特に熱心に両者の違い(&自説の正しさ)を説きます。でも、そんなことよりも、システム全体の理解が先にあるべきなのです。
そして、これをマスターしていれば、その先が開きます。
例えば、公務員試験。行政書士合格水準の知識を持っていれば、国家総合職も視野に収まるでしょう。また、法科大学院に進学した場合も、授業で戸惑うことはないはずです。学部の授業でも、三年生以降に登場する科目(知財法とか金商法とか)に対して、“攻め”の姿勢で臨むことができます。そして資格試験。司法書士試験は科目的に共通点が多く、実際社会人の合格者でも「次の資格」としてトライする人が少なくありません。また、目指すものが司法試験だとしても、マイルストーンとしてじゅうぶん役に立つでしょう。
では、どうしたらその水準に達することができるのでしょうか。
残念ながら、大学の授業では不足です。
大学の法学教育には、いくつかの問題があります。
1.教授が学者としての問題意識で授業をしてしまう
2.大勢で授業をするため、統一性に欠ける
3.ペースが遅い
1は既に書いたとおりで、基本を理解する前に論点ごとの学派の対立を憶えてしまったりするため、知識がいびつになってしまうのです。ワサビ下ろしや大根のかつらむきをいくら上手にできたとしても、魚がなかったら刺身にはなりません。
2は大学という組織の構造的問題です。高校でも授業は科目別に異なる先生が担当しますが、大学ではもっと徹底しています。民法だけに限っても、4~6種類の授業に分かれ、それぞれ別の先生が授業を持つのです。そして、商法・会社法は、それとはまた別の先生が担当します。同じことが憲法や行政法にもあります。どうしても内容にずれが生じるのですが、これは学生自身が補わなくてはなりません。
3は切実です。大学の授業というのは、週1回ペースで半年~1年(授業回数では15または30回程度)をかけて行います。しかもそれには前後関係があります。憲法が終わってから行政法、民法総則が終わってから物権法……というように積み重ねていくのです。その結果として3年目の終わりにならないと一通り終えることができません。このシステムでは、全体像が頭に入る前に逐次忘れていってしまうでしょう。
では、どう学べばいいのか……この答えが、いわゆる法律予備校です。
法律予備校というのは、元々は司法試験予備校としてスタートしました。昔の司法試験は今と違って一発試験で、学部卒業後数年の浪人を経て合格というのがあたりまえでした。この間自宅に籠もって勉強が続けられるほどの意志の強い人はあまりいないわけで、受験勉強をするための受け皿として存在したのです。
ところが、だんだん存在意義が変わってきます。実践的な法律学の知識を、大学よりも効率的に教えるようになり、司法試験を目指す上での優先的な選択肢となってきたのです。大学受験でも、高校の授業よりは予備校の夏期講習の方が役に立ちますね。あれと同じです。多くの受験生は、大学の授業などそっちのけで、法律予備校に通うようになりました。司法試験制度の改革(それまで誰でも受けられたのを、法科大学院を出ていないと原則受験不可とした)というのも、実際のところ、そうして予備校にしてやられた法学者たちの仕返しという側面があります。
ともあれ、教育機関としての存在を確立した法律予備校は、次のビジネスとして他の資格にも展開するようになりました。司法書士試験、そして行政書士試験です。
では、どんな点が優れているのでしょうか。前回書いた三つの問題を思い出してください。予備校では、これが全てクリアされているのです。
私が世話になった伊藤塾の場合で言いますと、基本的に一人の講師が全科目を教えます。もちろん講師は複数いるのですが、「A先生コース」「B先生コース」という感じで、講師ごとに分かれているのです。そこに学者はいません。実務家または社員である専任講師が担当しています。そして、講座は1年単位で完結します。年明けに始まり、まず憲法、続いて行政法、次に民法……という調子で、密度の高い授業が連続、夏までの間に基礎と実践で2周することになります。大学が3年かけて1周するところを、予備校では半年強で2周なのです。
とはいうものの、ひとつ問題がありますね。お金です。ダブルスクールというのもよく見る単語ですが、ただでさえ高い大学の学費を払っているのにもう一つ分払うというのは、多くの人にとってきついでしょう。
でも、これは大丈夫。同じ予備校でも、行政書士講座はかなり安価なのです。司法予備試験の講座の場合、110~130万円と、本当に大学にもう一個行くのと同じぐらいかかりますが、行政書士講座は20万円ぐらい。これだって簡単に出せる額ではありませんが、投資と考えれば安いものです。この余裕がないという人は、まずアルバイトをしましょう。1年生の夏休みにがんばってアルバイトをすれば、翌年の講座から受けられます。2年生の秋時点で、並みの学部卒を超える法律スキルを得ることができるのです。
以上、かなり厳しい言葉を使ってきましたので、カチンと来た方もいると思います。ここで種明かしをしましょう。
最初の方を読んでみてください。そう、これは「若い頃の自分に伝えてやりたい」言葉なのです。
法学部に入った私は、大学が持つ雰囲気のせいか、自称「司法試験志望」の学生となりました。しかし、実際にやっていた勉強はかなりうわずったもので、肝心の実務的な法知識は全然足りませんでした。結局私が好んでいたのは、法学のスコラ的な側面だったのですね。
その頃、既に法律予備校はありました。通いたいという気持ちもあったものの、何しろ大学のある八王子からは遠く離れた都心にしかなく、説明会にちょこっと顔を出しただけで終わってしまいました。結局、現実から遊離した志望者のまま大学生活を終えたのです。受け取った卒業証書には「法学士」と書いてありますが、実際には仮免以下だったといえるでしょう。行政書士試験を受け合格することで、ようやく自分の肩書きが本物になったのだと自覚しています。
さて、これだけ書いておいてからしれっとした顔で書き足すのですが、実は私は大学のあり方についても共感を覚えます。あしざまに取り上げた「リーガルマインド」はもとより、「大学は学問をするための場所であり、職業訓練をする場所ではない」という価値観、そして「教授の連携はなく、学生が間を渡り歩く」商店街型教育システム、どれもなかなか悪くないと思うのです。
高校までは「生徒」といい、その上の学校では「学生」と呼ぶのですが、学ぶにおける主体性が、両者を分かつものでしょう。「ぼくが未熟な君たちを導いてあげるよ」という教師は前者向きですが、後者に向いているのは「ぼくはこういうことやってるから、興味があるなら見ていってね」という人で、これが大学という教育機関の真髄です。
これは「法学部で本当に学ばなければならないこと」に直結しています。多くの一般人は、法学部生がする勉強を「法律のルールを黙々と憶えること」と思っています。でも、そのルール自体はどう作られるのでしょうか。社会はどうあるべきかという理念があり、一方で現在の現実があります。ルールの目的は、理念を未来において現実に反映させることです。また、その制定過程というのも、重要です。こうしたものを「作られる段階での法律」と呼ぶことができるでしょう。そして、学問としての法律が意味するものは、これなのです。法学部のテーマは「制定された法」だけではなく、むしろ「制定する法」にこそある、そう言ってもいいでしょう。こうした意味で法律を学んでいく上では、先述のような特徴を持つ大学システムは、実に効果的です。教授が研究者としての自分を優先しているというのも、大事なこと。学生からは「なんでこの人はこんなことに生涯を費やしているんだろう?」と見えるのですが、もう一歩理解が深まれば「この人が生涯を費やしている以上、これは重要なことに違いない」と気づきます。気づけば、見つけることもできるのです。教員としての自己を優先したのでは、学生からはふつうに「先生」に見えてしまい、自分が教わっているシステムについて疑問を持つことすらないでしょう。
また、法学部システムを支える重要要素に「卒論がない」があります。文学部も経済学部も、たいていは必須科目ですが、法学部にはありません。なので、論文指導というものもありません。ゼミはありますが、教授が特に目をかけている少数の学生以外にとっては、所詮は週一ペースで行われる教室授業の一つ。ほとんどの学生は、基本的に放っておかれるのです。これが理工系の学部ですと、卒論(卒研)指導というのは、学生指導の中核です。学部生を研究室単位で囲い込み、研究者のタマゴとして訓練するのが、基本的な方法論だからです。研究対象なり内容なりに対してならともかく、その進め方自体はがっつり押しつけられるもので、学生に悩む余地はありません。これとは対称的な法学部のシステムですが、学問の性質上悩み疑問を持つことが大事であり、それをさせるための放任システムであると言えるわけです。
先に挙げたように、医学と法学は実学の双璧ですが、やはり方法論は180度違うのですね。医学の基礎にあるのは化学ですが、法学の根本にあるのは哲学《*2》です。「誰にとっても明瞭で割り切れる」学問と、「誰もが明確に言い切れない」学問、これが同じであるはずもありません。少なくとも、人生において迷いや悩みを持たなかったような人は、法律学を学んだとしても、それを生かすことができないでしょう。実際、法学は多様な可能性に目を配る学問です。自衛隊の合憲性も死刑廃止の是非にしても、どの立場からでもきちんとした論を張ることができるのです。
*2 法学の根本にあるのは哲学 ここでと言っているのは、デカルトやカントのような形而上学だけを指すのではなく、論理学はもちろん、心理学や社会学までも含みうる広い概念で理解してください。もちろん形而上学は重要ですが、深入りは禁物。沼にはまり、抜け出せなくなります。
一人前の人間には、バックボーンがあります。高校までは最大公約数的な人類共通知識を学びますが、その先は自ら選んだことを学んでいくわけで、バックボーンとはそれを通じて形成される思想的人格の根本のことです。特定分野の勉強というのは、別に大学に行かなくてもできますが、それをバックボーンとするためには片手間では足りず、やはり大学に行くことが優先的な選択肢となるでしょう。そして法学部にいるというのは、自らのバックボーンを法律学を通じて形成するということです。
そこには、スキルの要素もあります。
例えば、三島由紀夫は東大法学部卒ですが、「自分の文章は法律学を通じてできあがった」みたいなことを書いています。私も自分に対して同じことを思います。文章において重要なのは情感ではなく論理であり、レトリックというのもそれを満たした上でしか成立しないということ……物書き要素を持つ人間としてそれを常々感じていますし、それは法律学を学んだことで身についたという自覚があるのです。
でも実際には、スキルの奥にあるものの方が重要でしょう。
物事をシステムとして理解するということ、事件に接したときに一歩下がって当事者ではない視点から考えてみること、「そもそもそれは何のためにあったのか」に思いを馳せるということ……私が法律学を通じて身に付けた習慣で、これはその後もずっと役に立っています。
このように、自由にさせてもらった学生時代を、私はとても価値あるものだったと思っています。とはいうものの、反省もまた現実なのです。
司法試験というのも自分的には本気だったのですが、それだけをひたすらやっていたわけではなく、いろいろ手を出していました。特に熱中していたのが創作と現代思想で、実は私にとっての法学は、後者を軸に捉えたものでした。当時はニューアカ《*3》ブームで、私もしたり顔で『脱構築』とか言ってた口なのです。結局、“何者か”になろうと切望していて、でも行為としての“何か”を十分にはしてなくて、結局何も満足にできないまま学生時代を終えました。
それは正解だったのかもしれません。もし未来の自分から電話をもらっていたら、学部生時代に法的スキルを身につけた反面、今の自分につながるような経験ができないままで終わったかもしれないのです。
と、好き放題書いてきましたが、この辺で終わりにしましょう。
一連のシリーズを簡単にまとめればこういうことになります。
◆「法学徒なら、ちゃんとした実定法の知識を持て。
せめて行政書士試験に受かるぐらいには」
◆「大学生にとって大事なのは、実定法の知識なんかじゃない。
法学が持つ哲学としての側面を、自分のものにしろ」
結局、どっちなんですか? と言われそうですね。ここでビジネス実務で使われる、こんな言葉を紹介しましょう。
「全部優先!」
会社に入って仕事の優先順位を尋ねたら、上司から返ってくる言葉です。“ムリへんにゲンコツ”と書くのは、相撲の兄弟子だけではありません。なんとか折り合いを付けて、充実した学生生活を過ごしてください。
*3 ニューアカ 「ニューアカデミズム」の略。バブル前夜、知的ディレッタントの間で発生したムーブメントです。20世紀に主にフランスで展開した哲学理論が「現代思想」の名で続々と紹介され、凄くありがたい思想であるという前提で大流行しました。今冷静に考えてみると「もったいぶった言葉遊び」以上のものではなかったのですが、当時の私はこれが真理に近づく道だと思い、歯を食いしばって理解に努めたものです。