割り切るための憲法・序論

 憲法。その言葉に格別の響きを感じる人は多いでしょう。ただ、法律専門職的に言わせてもらえば、憲法もまた日本法を構成するコード体系の一部です。制定された過程ではさまざまな理想が論じられていたにしても、できてしまった以上、法の一つとして扱わなければなりません。
 こんなことをわざわざ書くのは、メディアでの扱いがあまりに偏っているからです。実定法の一つであるのに「それ以前」の部分に話題が集中しすぎているのです。法律は文芸作品である以前に実用品なので、「使う」対象としての側面が重要です。ところが、それがほとんど顧みられることのないまま、あたかも鑑賞の対象でありさえすればいいといわんばかりに、もっぱら理念だけが語られるようになってしまっています。
 このような歪みは、こと資格試験の勉強にあたって、理解の大きな障害となってしまいます。困ったことに、特に進歩的な人たちにとってそうなのです。市民としての意識が高ければ高いほど、理念部分の方に目が行ってしまい、実定法部分の部分の理解の妨げになってしまうからです。意識の高さは、もちろん市民としては重要です。しかし資格試験の目的は「実務遂行能力の担保」にあります。この視点から離れるべきではありません。
 そこで、「割り切る」ための憲法を、特に9条を軸に概説してみたいと思います。目的において資格試験を念頭においていますが、試験対策を展開するわけではありません。試験勉強に先立って「迷い」を取り去るための論考です。それを求めている人は、しばしお付き合いください。

憲法とはなにか

 まず、基本的理解として、「憲法はなにか」ということを確認しておきましょう。
 法律に対する法律、これが直接的な機能です。全ての法律は憲法に合致したものでなければならず、法律の執行もまた憲法に反することは許されません。憲法違反の法律は、最終的には最高裁で無効と宣告されてしまいますし、公務員の行為が憲法に違反していたら、国は損害賠償の義務を負うことになります。
 そして、これと軌を一にする重要な特徴があります。国民に対する法律ではないということです。憲法の名宛人は国家なのです。法人的な実体としての国家や政府機関、そして公権力の担い手である公務員などは憲法に拘束されますが、一般国民は対象外。憲法自体に「国民の権利及び義務」なんて章があるから誤解を招くのですが、あれは明治憲法(大日本帝国憲法)の語り口を受け継いでいるだけで、法的拘束力があるわけではありません。
 例えば27条では「すべて国民は勤労の権利を有し義務を負う」などと書いてあります。では、失業者は憲法違反になるのでしょうか。そんなはずはありませんね。ただ、国民が失業している状態を放置しないということと、その一方で対策において行き過ぎないこと(=失業への給付さらには生活保護に対してもある程度の制限をかける)の、政策を実行する上での根拠となるのです。同じ27条3項にある「児童は、これを酷使してはならない」も、文言の上では国民に直接命じているようにしか読めない条文ですが、この場合も具体的に義務付けられるのは国です。児童が酷使されるような仕組みを排除し、また児童酷使を行うような者を掣肘する仕組みを作るという意味で、公権力側に義務が課せられているのです。

憲法の目的

 さて、憲法の実定法としての側面については、以上述べたような「法律の法律」としての理解が最も重要です。とはいえ、問題の正しい理解のためには(&迷いを振り切るためには)、もう一歩踏み込んで理解しておく必要があるでしょう。
 実は「法律の法律」という機能は、憲法にとっては手段であって目的ではありません。およそ法律というのは、こういう二重構造を持っています。例えば刑法は罪と罰を定める法律ですが、それは手段であり、目的は“犯罪のない安全な社会を作る”ことにあります。民法も、主に履行強制と損害賠償という手段を使って、“公正公平かつ自由な市民社会の実現”を目的とする法律となっています。
 では、「法律の法律」として作用することを通じて実現しようとしている憲法の目的、それは何でしょうか。一言で言えば、国家のグランドデザインです。政治システムとしての「日本」を構築する、その目的で存在しているのです。
 そこにはまず理念があります。平和主義、自由主義、非君主制、人権の保護…数えようによっては少し変わってくるのですが、これらが日本国憲法の基本理念です。そして、これを具体化させたものとしての権利規定――国家が国民に対して約束すること――と、理念を実現するための方法としての統治システム、これが条文という形で規定されているのです。
 具体的には前文+全103条によって構成されているのですが、第10条から40条までが、いわゆる人権カタログ。国家が国民に対して約束する基本的人権が並んでいます。そしてその他の部分は、ほぼ統治システムに関する規定です。講学的な分類でも、これらを「人権」「統治」に分けます。
 勉強する対象としての憲法というのがどういうものなのか、ここまででもおよそおわかりいただけるのではないでしょうか。統治が全体の7割を占める以上、人権だけやっていたのでは不十分なことは確かです。ましてや、具体的規定に入る前の段階=憲法の理念のところで足踏みをしていたのでは論外です。

「統治」が重要な理由

 このような規定のあり方は、人によっては疑問を感じるかもしれません。憲法の、統治の部分で語られているのは、細々とした具体的なルール。天皇の国事行為が何かとか、内閣や国会などの国家機関をどう構成しどんな権能を与えるとか、いわば単なる規則にも見えるものです。ここになぜ多数の条文を割かなければいけないのか……憲法を理念だけで捉えてしまうと、そういう疑問も出てくることでしょう。
 ここで一つ想起して欲しいことがあります。今世紀になってから頻発した「民主化革命」です。二十世紀の世界には、多くの独裁国家がありました。東西冷戦のバランスの中で勢力を保持していたのですが、冷戦の終結にともなって民主化運動が起き、次々と倒されていきました。しかし、その後世界は民主主義のもとで統一されたのかといえば、残念ながらそうではありません。第一回総選挙で与党となった政治集団が、全ての規定を自分たちに都合のいいように制定して権力を掌握、結局独裁者の首がすげ代わっただけで、第二回総選挙は行われないまま…世界を見渡せば、むしろそんな国の方が多数派です。
 現実の理由は単純ではありませんが、一つ指摘できることがあります。権力者に無限定の権限を与えてしまうと、容易にこの道を辿ってしまうということです。民主主義とは、ある意味人間不信を前提にした制度なのです。なので、権力を執行する機関には、お互いに急所を握り合わせておく、そんな制度設計が必要です。
 例えば、「日本でいちばん偉い人」は誰でしょうか。内閣総理大臣、それが答えになりそうです。大臣に対して自由に指示を飛ばし、自身の一存で罷免することまで、首相はできます。さらにいえば、天皇でさえも意のままに動かすことができるのです(条文上は『助言と承認』という言葉を使っていますが、意味的には『命令』と変わりません。なお厳密には内閣総理大臣ではなく内閣の権能ですが、それを言えば衆議院解散だってそうですね)。とはいえ、国会によって選ばれ、また国会によって罷免されるという点では、絶対のポジションではありません。その国会にしても、総理大臣によっていつでも解散させられてしまう立場です。「クビにならない」という点では、裁判官が挙げられます。これは、総理大臣を含め、だれからの命令も受けることのない地位でもあります。ただ、絶対にクビにならない訳ではありません。最高裁判事であれば国民審査の対象ですし、一般の裁判官の場合も国会が組織する弾劾裁判所によって免職される場合があります。
 理念と制度は、上下の関係にあります。ただ、必ずしもトップダウンで成り立っているわけではありません。マルクスは「上部構造は下部構造によって規定される」という言葉を残しましたが、これは政治経済の分野を超え、汎用的にあてはまる概念です。法律の理念が守られるためには、下部構造としての具体的ルールがしっかり考え抜かれて作られている必要があるのです。面倒に見える規定も「なぜそうなっているのか」を意識して考えてみるといいでしょう。

9条の正体

 さて、ようやく9条の話です。
 ここまで説明してきた視点で見れば、9条もまた神聖視すべきものでないことは理解できると思います。国防は、好むと好まざるとに関わらず、国家が果たす重要な機能です。憲法が国家システムを規定する体系である以上、それもどこかに位置づけなければなりません。それで9条があるのです。
 具体的には、全2項のシンプルな条文です。1項で基本方針を述べ、2項で具体的仕組みが書かれているという建付けですね。
 第九条
   日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
   国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
   国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、
   陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
   国の交戦権は、これを認めない。
 国権の発動たる戦争というのは、国家の交戦権が行使されての戦争を意味しています。交戦権という言葉は国際法上固有の意味を持つ用語で、「交戦する権利」なんて逐語訳してはいけません。戦争権ともいい、独立国家が持つ基本的権利=国家主権のひとつで、他国に対して戦争を挑む権利のことです。そして、これに続く「武力による威嚇または武力の行使」というのは、“事実上の戦争”を意味しています。例えば満州事変に始まる日本の中国への戦争や、アメリカにとってのベトナム戦争などです。近くでは、ウクライナに対するロシアの「限定的軍事作戦」が該当します。どれも宣戦布告は行われておらず、国内法においても戦争状態に入ったことにはなっていません。ただ、いくら形式的にそうでないと言っても、実質的に戦争にほかならないことは明らかですね。こういうものを認めたのでは無意味。そこで「または」以下の部分でそれにも蓋をしているわけです。
 ということで、1項の結びにある「永久にこれを放棄する」と言っているのは、これらに限定されます。日本は、他国に対して宣戦布告をすることはできませんし、またそれを省略しての実質的な戦争もできません。しかし逆に言えば、それら以外の戦争まで放棄しているわけではないのです。例えば他国が一方的に侵略してきた場合の防衛戦争というのがありますし、また国際的な合意に基づく秩序維持としての軍事行動というのもありますが、そうしたものまで放棄しているわけではありません。
 そして第二項の解釈も、この前提に縛られます。「前項の目的を達成するために」と言っていますから、限定的に捉える必要があるのです。つまり「陸海空軍その他の戦力を保持しない」がいう“戦力”からは、防衛戦争等のための戦力は除外されているということです。これは、念押し的に出てくる「国の交戦権」という概念とサンドイッチされていることからも分かる通り、一項の限定であり、単独で意味を考えるべきものではありません。

自衛隊違憲論がある理由

 以上の点から導かれるように、自衛隊は合憲です。9条2項で禁止される種類の軍事力が規定されており、それに該当していないから合憲になるのです(こういう、裏側から行う解釈を『反対解釈』といいます)。実際に、警察予備隊として組織されたときからそれは軍事的な戦力でしたが、2項が禁止するような意味での戦力ではありませんでした。これは現在に至るまで続いています。
 では、違憲論があるのは、なぜなのでしょうか。ここでは2つの理由を挙げてみます。


1.文理解釈の結果として:

 自然言語という媒体の性質上、法条文が示す意味にはある程度の幅が生じてきます。自衛戦争は国権の発動として始まる訳ではありませんが、侵略に対応して軍隊が動く時点では国権も関わることになりますから、それも含めて全否定しているのだと読まれる可能性は存在しています。
 実際、過去の裁判例として、違憲と宣言したものがあります。直接的には、70年代の「長沼ナイキ訴訟」一審が、自衛隊を違憲と断じた上で、原告が訴えていた保安林解除の無効を認めました。また、その10年以上前に出された「砂川事件」では、駐留米軍の存在について憲法違反とされました。
 ただ、どのような対象であれ、初期の判決にゆらぎがあるのは、裁判の仕組み上仕方のないことです。
 裁判官は、公務員一般とは異なり、組織としての意思決定を行いません。一人ひとりの裁判官が独立した立場で判決文を書くのです。なので、他の官庁のように意見の一体性は持たせられません。結局それらの違憲判決も、二審以降では維持されませんでした。憲法自身が定める司法システムの中で、修正されたのです。そして回数が繰り返されることで、集団知は形成されていきます。長沼ナイキ訴訟から50年が経った現在では、この点での揺らぎはほとんどありません。

2.制定者の意思として:

 もう一つは、制定者の意思に基づく立場です。
 立法者意思説という法解釈の立場があります。文言からどんな解釈ができたとしても、立法者が持っていた特定の意思がわかっていたとすれば、それを解釈において優先するという考えです。
 憲法にこれを導入した場合、制定された歴史的経緯が解釈の根拠となります。実際、戦後間もない頃の連合国は、日本にいっさいの軍備をさせないという意図を持った上で占領政策を展開していました。日本国憲法は、そのような中で制定されていますから、戦争放棄の規定もその文脈で捉える……すなわち「この規定は自衛戦争も含む全ての戦争を放棄しており、またどのような形であろうとも軍備力を持たないことも規定している」とする考えも、解釈論として成立する余地はあります。一般に、研究者は対象について歴史的連続体としてのそれを重視しますから、憲法学者の中にもこのような立場に立つ人は少なくありません。
 しかし、国家主権の内容を決めるのは個々の国家を超えた法的秩序であって、該当国を占領する特定の勢力ではありません。そして憲法を作った主体が何者であるのかは、現実の力ではなく政治的正当性によって決まります。旧憲法の条文は伊藤博文を中心とした政権中枢によって作られましたが、作った主体として認められるのは天皇でした。そして現憲法の場合も、後者の意味での作った主体――日本国民――を考えなければならなりません。
 そもそも、連合国(特にアメリカ)は完全非武装の考えをすぐに改めており、正式な和平が成立したサンフランシスコ講和条約の時点では影も形もないほどに放棄しています。歴史的側面を重視する場合でも、ここを無視するわけにはいかないでしょう。


 この節の最後に、「憲法の変遷」論について触れておきます。
 憲法の改正手続きは、周知の通りかなり面倒です。そこで、条文をそのままに、その解釈の方を変更するということが、政権側によってしばしば行われてきました。これは皮肉っぽく「解釈改憲」と呼ばれています。
 とはいえ、そのようにして行われた“憲法の読み替え”が、結果的に憲法制定権力(国民)の意思と合致していた場合、これを否定すべき理由もありません。
 「憲法の変遷」というのは、このような状態を指す言葉です。基本的にネガティブなイメージを伴っているのですが、学者の中にはこれを前向きに捉えた上で、自説に導入している人もいます。「50年代の時点は違憲だったが、その後国民の意識が変わり、それにともなって合憲と言い得るものになった」といった感じです。
 できて間もない頃であれば、これを元にどう国を立たせるかという議論にも価値はありますが、何十年と運用していれば、今さら同じレベルでの議論はできないでしょう。憲法の変遷論は、そうした現実感覚の表れとも言えそうです。

憲法9条の問題点

 以上、自衛隊の合憲性が担保されている旨を、述べました。
 とはいうものの、全く問題がないのかというと、そうでもありません。
 まず、自衛隊そのものが憲法のどこにも書いていないということ。2項反対解釈として合憲性が導けるということで、直接述べている条文がありません。旧憲法の軍隊も、「天皇は陸海軍を統帥す」「天皇は陸海軍の編制および常備兵額を定む」とだけあり、議会や裁判所のようにしっかり規定されていたわけではありませんが、現憲法にはそれさえもないのです。《*1》
 規定がない以上、統治に関する決まりごとは、一般法で決められています。現在、自衛隊の最高司令官は内閣総理大臣で、その直下において国防を所轄する防衛大臣が組織の頂点にいることになります。旧憲法下では、実行部隊としての陸軍/海軍は、行政組織としては陸軍省/海軍省という形をとっており、それらを所轄する大臣として、陸軍大臣/海軍大臣がいました。その一方で、実行部隊としての陸軍/海軍の指揮を執るための機関として、参謀本部/軍令部がありました。つまり、編成と統帥が(憲法の条文に応じる形で)分離されていたのです。現在の自衛隊では、こういう分離は行われていないため、実行部隊としての自衛隊において指揮権を持つのも防衛大臣です。
 ただ、こうしたこともあくまで一般法での規定で、憲法上の根拠はありません。66条に「国務大臣は、文民でなければならない」という規定があり、ここから文民以外の公務員=軍人の存在も想定されているというのが、軍組織に関する唯一の条文です。
 政策論としては、やはり改憲を考慮することが自然でしょう。ただ、それをどのようなものにするのかは、資格試験という視点からは逸脱してしまいますので、ここでは論じないことにします。

*1 現憲法にはそれさえもない もし日本国憲法が「国権の発動たる戦争」以外の戦争をするための軍事力を想定していたら、ここに何か書き残しておくはずだ。しかし実際には、陸海軍の規定をそっくり削除して終わり。これは、どのような形であれ、いっさいの戦力を持たないということを意味しているのだ……と、自衛隊違憲論の根拠として引用する考えもあります。

憲法は恩寵ではない

 ずいぶん長くなってしまいました。ここまでの重要ポイントを要約します。
  1.憲法は「法のための法」で、その目的は国家システムのデザインにある。
    →なので、名宛人は国家であり、国民に義務を課すものではない。
  2.内容は、基本的人権と統治機構に分かれており、条文の6割が後者である。
  3.憲法9条で禁止されている戦争には、限定がある
    →禁止対象の戦争に対応していないので、自衛隊は合憲である。
 憲法を理念そのものだと思っていると、本質としての1が見えてきません。そして2部分についてもその重要性が理解できず、「なんでこんな面倒な細々としたこと憶えなきゃなんないの!?」と、敬意を欠いた不平が出てきてしまい、理解よりも暗記に走ったりします。そして、条文を注意深く読み解いていけばわかる3も、理念を先行させてしまうと見誤ってしまうのです。

 日本国憲法は、旧憲法とは何から何まで違っているのですが、その中でとりわけ大きく違う点があります。民定憲法だということです。国民が自ら作ったものであって、超越した他者から与えられたものではないということです。
 もちろん、歴史的経緯はそうではありません。敗戦後に日本を統治した連合国軍総司令部から草案を提示され、それに対応する形で1週間足らずで原案が作られました。そして形式的は大日本帝国憲法の改正として行われているため、「朕は」から始まっています。つまり、実質においては連合国によって、形式においては先の主権者である天皇によって、与えられた憲法です。
 しかし、重要なのはここではありません。憲法は前文で「国民の総意によって作り上げられた」ことを高らかに謳い上げています。である以上、拠って立つのはここなのです。そして現実に、総体としての日本国民はこれを「自分たちの憲法」として受け入れ、そのグランドデザインに従って新生日本国の建国に取り組みました。以来70年、すっかり定着しています。スタート時点にこだわるあまり、その年月を全否定してしまうのは、正しい態度とはいえないでしょう。

 さて、作ってきたものは、当然作り直していかなければなりません。人の手によるものが、人智を超えることはないからです。神から与えられたルールであれば永遠不変としていてもいいのですが、憲法はそのようではありません。作った人――正統性を持つ制定者と、実際の制定に携わってきた人の両方――の持つ価値観や時代の精神などによる制約を受けているわけで、そうした前提が変化する以上、変わっていかざるを得ないのです。
 これは、けっこうたいへんです。というのも、どのように作っていかなければならないのかを、常に考え続けていなければならないということを意味しているからです。そして「作る」の目的語は「条文」ではありません。冒頭でも述べたように、憲法の目的は国家のグランドデザインです。日本国という国をどのように作っていくのか、それが問われているのです。
 幸いにして、行政書士試験ではそこまで問われることはありません。「憲法25条の改正案として適切なものを肢から選択せよ」なんて問題が出題されたら大騒動ですね。なので、こうした問題意識は、箱に入れて棚にしまっておいて問題ありません。ただ一つ言えることがあります。「どう作り替えていったら、よりいいものになるのだろうか」という視点を持つことは、現在のそれを理解する上でとても役に立つということです。少なくとも“不磨の大典”などと持ち上げて改正自体をタブー視するような態度よりは、よっぽど健全でしょう。こんな態度は、憲法を、ユダヤ教/キリスト教の十戒のような“超越者から与えられた叡智”とでも思っているのでない限り、とることはできないはずです。

むすびに:割り切ることの意味

 大学の授業では、法解釈は議論の対象です。そして、さまざまな考察から「自説」を作り出していくことが、学生に対しても求められます。しかし試験においては(司法試験を例外として)そうではありません。正解とされる解釈があり、それを答えることが求められます。
 これは、誰がなんのために試験を営んでいるのかを考えれば、理解できると思います。士業には、所管する官庁があります。例えば弁理士なら特許庁ですし、司法書士なら法務省です。彼らが望む士業は、なにより仕事のパートナー。つまり「同じ言葉を使って会話ができる」相手であることを望んでいるのです。例えば特許庁は、産業財産権4法を逐条解説した読み物「工業所有権法(産業財産権法)逐条解説」(通称『青本』)というものを出しています(買えば1万円以上しますが、同じ内容のPDFを無償で公開してもいます)。これは弁理士試験における文字通りの必携書です。特許法も法律である以上解釈の幅はあるのですが、弁理士試験における正解は「青本に書いてあるとおり」だからです。特許庁が望む弁理士は、単なる代理人ではありません。発明家と特許庁の間に立ち、特許庁の考えを発明家に説いて、それにあわせた申請を行ってくれる、そんな役割を望んでいるからこそ、こんなものまで作っているわけです。
 行政書士試験の所管官庁は、総務省です。日本という国の運営の実務を、中核部分で担っている官庁なのです。その公定解釈に基づいて日本法の体系を理解していることは、行政庁相手の仕事をする上ではマストと言えるでしょう。さすがに特許庁の青本に相当するものはありません(それをやったら、コンメンタールがまるごと揃ってしまいます)が、当然ながら「判例/通説」の立場を基本にした、実務に沿った法の理解が必要なことはいうまでもありません。
 割り切るということも、ここと繋がっています。例えば、取引先の会社が、朝礼のたびに皇居の方角に向かって遙拝を行っていたり、あるいは事務所奥の大きな仏壇の前で仏教的テーマに基づく社訓を三唱していたりなんてことがあったとしましょう。これに対し、いちいち自説を展開するでしょうか? 割り切って、相手にあわせますよね。資格試験も同じです。行政庁は、行政書士にとって取引先なのです。
 というわけで、ついこだわりたくなってしまう憲法9条の割り切り方を、お伝えしました。他の気になる部分も、同じようなスタンスで乗り切れるかと思います。どうか合格目指してがんばってください。