自分が教える側になっていくつか気づくことというのもあります。法教育をする以上、具体的に何をすればいいのかを考えないわけには行きません。要は、何をしたら目的を達成できるんだろうかということですが、その前に目的それ自体もありませすね。通常、その答えは「一定の知識の獲得」でしょう。しかし、ここが違っていたのです。
法学部の学生は、実際にはあんまり暗記をしません。「ああ、それは民法709条の問題だね。その場合、故意か過失の存在が必要なんだ」なんて言うといかにも全条文を覚えているように聞こえますが、実際には、重要な条文は繰り返し出てくるため自然に頭に入っているというだけのことで、条文の暗記なんてことは、まずしないのです。教えることを考えた結果、自分がそういうことをしていたんだというのを、逆方向から気付かされたのですね。
ともあれ、法学部ですらそうなのですから、“アート系学校”としても、規定の暗記なんてことをやらせていたのではだめです。そして、目的として設定すべきが「知識伝授」ではないこともはっきりしてきました。
では、何をすればいいんだろうか…と、あれこれと考えた結果、「脳を作る」というところにいきあたりました。つまり、法律脳です。
条文の暗記などを図らない法学部でしていたことは何なのか…これは、法律システムを通じて世の中を見るという視点の獲得です。世の中には、いろいろな当事者がそれぞれの立場でいろんなことをしているわけですが、そのあれこれを観ずるにあたり、人は何らかの視点を持っています。例えば街路樹の葉っぱが落ち葉になったのを見たとき、宗教家であれば生命の輪廻を感じるのかもしれません。しかし、都市工学者なら、それを回収するシステム―ゴミではなく資源にできないだろうか、とか―に思いを馳せることでしょう。このような視点、すなわち「世界観」ということですが、これを獲得していく過程こそが、リテラシーの先にある勉強です。法教育においては、「法律脳を作っていく」ということなのです。
問題は、目指すべき水準ですね。法学徒であれば、それはもう「第二の母国語」レベルに操れなければいけないわけですが、同じことをクリエイターコースの学生に求めるのは本末転倒でしょう。「法律脳を持つ人なら、ここをどう考えるだろうか」を考えることができる、まあそんなあたりが目標になります。
別の言い方をすれば、「法律家が言葉を紡いでいるとき、それが法律語であることに気づく力」となるのでしょうか。街なかでよく外国人グループを見かける時代になりましたが、使っている言葉が何語かわからず困惑することが少なくありませんよね。でも、英語や中国語・韓国語であれば、それが「そうである」ことまではわかります。論じている詳細な内容はわからなくても、手がかりぐらいはつかめるでしょう(少なくとも、ケンカなのかじゃれ合いなのかぐらいは、わかると思います)。このレベルでの法律脳を獲得すること、それを目標に据えています。