昨日(令和2月28日)、前日に出された首相の事実上の指示により、全国の大半の小中高校が突然終業日を迎えてしまいました。ただ、これを1年後に憶えてるかというと、微妙でしょう。コロナウィルス感染がこのまま収束するのなら、騒動それ自体が一括りで風化してしまいますし、猛威を振るうのが「への恐怖」ではなくコロナウィルスそのものになったら、今回の指示なんてのは霞んでしまいます。
ただ、メディアを飽和する騒動の陰で隅に追いやられたいくつかのニュースの中には、一過性でないものも存在します。著作権法の視点からは、令和2年2月28日という日は、「JASRACが音楽著作権の陣地をまた一歩拡大することに成功した日」として、記録されるべき日となっているのです。
日経新聞「JASRACの著作権料徴収認める 東京地裁、音楽教室敗訴」2020年2月28日付記事
事件のあらましは今更感があるので書きません。ただ、多くの人にとって、当不当の以前に「違和感」のあるものなのではないでしょうか。
著作権の存在を知らない日本人はいないでしょうし、複製の類いがその侵害に該当することも常識でしょう。しかし、複製ではなく演奏――しかも、ステージなりライブハウスなりでやるのならともかく、広くても学校の教室程度、場合によっては個人の自宅で行われる演奏に対して、著作権者がいちいち代金を強制徴収できるということが、素直に納得できるものでしょうか。そもそも演奏するのは、本来の意味での「プロミュージシャン」ではなく、聴く側も楽曲を鑑賞する意図でそうしているわけではありません。何より、やっていることの本質は、学校のそれと同じです。そのようなものを、著作権管理団体が問題視し、権利侵害だと騒ぎ立てていること自体に違和感を感じているのです。
次の記事は、朝日新聞による続報ですが、そのあたりの違和感をうまく言い表していると思います。
朝日新聞「演奏権が拡大、市民感覚とズレ? JASRACは説明を」2020年2月28日付
この違和感ですが、実は、著作権法の成り立ちが関係しています。
Webの方でも記事にしているのですが、著作権法というのは、そもそもは業界法でした。著作権に関係する業界があり、その利権を守るための法律だったということです。著作をするのはプロだけで、それをビジネスにするのは業界だけ。一方、海賊版業者のような秩序を乱す存在があり、それから業界を守るために強大な権利が設定されたのです。過剰なまでに敏感な権利侵害規定も、極めて重い刑事罰も、一般市民を眼中においていないがゆえに成立していたのだと言えます。
例えば80年代、ミニコンポなんて商品がありました。レコードプレイヤーとFMチューナー、そしてカセットデッキを備えたセット商品です。この商品カテゴリーで各メーカーが競い合っていたのは、レコードを効率的にカセットテープに複製するための機能でした。またカセットからカセットへの複製(ダビング)も重要で、ラジカセも含め、その機能を競い合っていました。
一方、コンテンツホルダーであるレコード会社ですが、その多くがそうした機材を販売している会社の系列化にありました。当時のメジャーレコード会社を挙げると、CBSソニー、東芝EMI、ビクター音楽産業……となります。
一見して矛盾した行動ですが、「そもそも一般市民は著作権法システムの対象外」という前提を入れれば、すっきり解決するわけです。
ところが、時代は大きく変わりました。
前節を書いてから、4日ほど経過しました。
この間、本件を巡る実に多くのコンテンツが世に出ています。このブログもそんなものの一つにするつもりで書き始めたのですが、ゆっくりやっていたら、言いたかった結論がどんどん出てきてしまいました。
なので、ここはネット上の優れた記事を紹介することにします。
まず、法律論の前にある諸事情も含めて理解するのなら、山崎潤一郎さんによるITメディアのこの記事が、詳細でお勧めです。
ITメディア「JASRAC対音楽教室、地裁判決は順当かナンセンスか『一般人の常識に即した裁判』の論点を整理する」2020年3月4日付
権利義務をめぐるトラブルの多くは、実際には裁判にはなりません。裁判になるのは、たいていは交渉失敗の結果なのです。音楽教室とJASRACの双方が、いつ頃からどんな交渉を始めていたのかが、この記事ではよくわかります。
一方、法律的な問題については、BLOGOSにある、「企業法務戦士」さんの記事が、わかりやすいでしょう。
BLOGOS「これが法解釈の限界なのか?~音楽教室 vs JASRAC 東京地裁判決に接して」2020年3月2日付
裁判は抽象的な法解釈を争うものではなく、具体的な事件を巡って争われます。そのため判例には守備範囲があり、出された結論は「この場合においては」という限られたものです。そのため、抽象化した上での先例性というのは、かなり難しいのです。あたかも全ての権利が認められたかのように捉えていきり立つアンチJASRAC派が犯しがちな誤謬(もっともそれはJASRACの側が『みんなそう勘違いしてくれると嬉しいな』と期待していることでもあるのですが)が、こちらの記事からは解けることでしょう。
そして、私と同じような問題意識を感じたのが、Yahoo!ニュース個人に載った栗原潔さんの次の記事です。
Yahoo!ニュース「音楽教室対JASRAC裁判の地裁判決は『一般人の常識に即した』ものか(前編)」2020年2月29日
判決直後、JASRACは勝利宣言とも言える記者会見で、「一般人の常識に即した判決」と高らかに謳い上げました。私は、これはなにかの皮肉なのかと、思わず2度見したのですが、おそらく栗原さんも同意見だったのでしょう。ただ、栗原さんは詳細に判決文を読んだ上で中立的にコメント、どちらかというとその結論を首肯しているように見受けられます。
でも、私はやはりここに拘りたいのです。
著作権法の権利侵害規定は恐ろしく敏感です。ちょっとしたことが、いちいち権利侵害に該当し、また権利者は、手厚く守られています。実は、著作者はそれほど守られているわけではなく、「私の著作権を無償で譲り渡す」なんて規定も有効ですし、職務著作に関しては、本当の作者は最初からいっさいの権利を受けることができません。守られているのは、あくまでも著作権者なのです。
こうしたシステムが許されていたのも、著作権法が業界法だったからです。その頃は、一般市民にとって、本当の意味での権利侵害は困難でした。ところが、周知の通りのデジタル革命で、この事情は変わります。にも関わらず、悪徳業者を懲らしめるために作られた諸規定はそのままです。これが、現在の著作権法の、大きな問題なのです。
手厚い規定は、単に「一般市民にとっての脅威」だけではありません。それは既存の権利者にとっての既得権なので、イノベーションを阻害する方向にも働きます。例えば、Googleのような検索エンジンは、日本の著作権法下では作ることができませんでした。検索インデックスを構築するために行う自前のサーバーへの展開が、複製権の侵害に該当してしまうからです(後になってからの改正で可となりましたが、遅すぎました)。さらに言えば、Googleニュースのようなものも、作ることができません。スニペットの作成が、やはり複製権侵害になってしまうからです。
奇しくもJASRAC側が使った「一般人の常識」という言葉、私は個々の現行法解釈ではなく、現行著作権法システムそれ自体を観る上で用いたいと思います。
そもそも法律は国民のもの。国民の当たり前の感覚から言ってヘンな結論が出てきてしまうのなら、変えるべきなのは市民感覚の方ではありません。法律とその運用なのです。業界法であることを前提に成立している著作権法のシステムは、ゼロベースで見直さなければならない段階になっているのす。
最初の著作権法ができたのが、1899年(明治32年)。その後、1970年(昭和45年)に全面改正が行われ、これが現行法となっています。前回と同じペースだとしても、次の更新まであと20年というところに来ています。
2020年2~3月公開
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