みんなの著作権 第2部 1章 著作権制度の意義
▶こんにち、さまざまな団体が著作権をアピールしています。そして、声高に被害を叫びながら、ユーザーにとって迷惑な仕組みを「著作権保護」と称して次々と導入してきます。主に“利用者”の立場で著作物と接している立場からだと、彼らは花園を踏み荒らす半獣人のようにしか見えないでしょう。しかし著作権という仕組みは、業界団体の既得権を守るためにあるのではありません。私たち自身のためにあるのです。
▶冒頭となるこのパートでは、なぜ著作権という権利が必要なのかを、概観します。
不可欠なもう一つの技
「空気のようなもの」という言葉があります。存在があまりにあたりまえ過ぎてふだん気づかないものへの呼び名です。電気など、典型例ですね。気がつくのは、停電があったときぐらい。そして、単に電力供給のありがたさだけではなく、それを使った製品のありがたさに気づかされることになります。科学技術の成果のおかげで快適な生活を送れていることを、あらためて実感するわけです。
さて、現代人の生活には、同じく不可欠な“空気のような”ものが、もうひとつあります。「創作されたもの」です。
私たちの生活は、どっぷりとそれに取り囲まれています。私たちは、朝起きると、テレビのスイッチを入れます。新聞を広げながら朝食をとり、ヘッドフォンで音楽を聴きながら職場や学校に向かいます。そして資料や書類を処理したり、教科書を広げて先生の講義をきいたりします。一日の仕事が終わって家に帰れば、ゲームや映画にも接するでしょうし、インターネットでコンテンツを楽しんだり、公開されているサービスを利用してコミュニケーションをすることでしょう。これらは全て「創作されたもの」です。もし科学技術の成果がなくなってしまったら、まともな生活は不可能になります。文化芸術の成果は、一般にそれほどまでに重要なものだと語られることはありませんが、もたらしている幸福感は、勝るとも劣らないものなのです。
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創作は、作者がいて初めて成立します。家電メーカーのような大規模な工業設備は必ずしも必要ありませんが、作者は生活の多くの時間を割かなければならず、原価ゼロというわけではありません。そして、例えば映画やテレビ放送のように、製造業一般と比べてもじゅうぶんに高い水準の元手を必要としている分野もあります。創作は、必ずしもお金を目的にして行われるわけではありませんが、それが社会に存在するためには、現実問題として、経済的な見返りが得られる仕組みは不可欠です。
著作権という制度がある理由は、こうした社会の仕組みを支えるためです。
とはいえ、「お金にかえる」は、本質ではありません(そのため、権利侵害の認定には、その侵害行為の結果としてお金を得たかどうかは関係ありません)。重要なことは、自由です。創るか創らないかの自由から始まり、何を創るのかの自由、そしてどう使うのかの自由までも尊重されることが、「『創作されたもの』のある社会」にとっては重要なのです。自由が尊重されるということは、他人の「自分で好きにしたい」をみんながお互いに尊重するということです。この「好きにできる」を別の見方から捉えたのが、「権利」ということになります。
著作によって発生する権利
何かを作った人は、その物を自由にすることができます。たとえばあなたが野菜を作ったとしましょう。収穫できた野菜はあなたのもので、どうするのも自由です。自分で食べてもいいですし、あげたり売ったりしてもかまいません。また、他人に貸し出すこともできます。自分が所有者=所有権を持っているからです。
著作権というものがいかに複雑に見えるとしても、スタート地点はこの野菜と同じようなものです。野菜における所有権に相当する、作った人としての「自由にできる」権利が著作権なのです。自分で使ってもいいですし、他人に貸したり譲渡したりすることもできます。そして、作った人に断りなしに使うことは、基本的に禁止です。
ただ、野菜と著作物とでは、いくつかの点で大きな違いがあります。
まず、「複製できる」ということ。野菜は、二つに切って分けることはできますが、自由に複製するということはできません。誰かに譲ったら、自分の手元からは消えてしまいます。しかし、著作物はそうではありません。パソコンが使われている現代では、多くの著作物が、ほとんど何の手間もかけずに、無限に増やしていけます。
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次に、「経年劣化しない」ということ。野菜は、放っておけば腐り、使えなくなります。著作物の場合、媒体は古くなっても、作品そのものが朽ちていくわけではありません。情報そのものが消え去ってしまわない限り、永久の耐用年数を持っていると言えるでしょう。
さらには、「先行作品の存在が前提になる」ということがあげられます。野菜は、種をまけばあとは自然に育っていきます。もちろん、既存の技術を知っていれば効率的に仕事ができるのですが、種以外に何もなかったとしても、何とかなります。しかし、作品は、作者が先行する作品群を知っていることが、事実上の必須要件です。一本の小説が書かれる前には、書き手は膨大な数の先行作品を読んでいます。そして、書かれた作品も、次の代にとっては先行作品の一つに加わることになります。
こうした違いを無視して、同じ規定をそのまま使うわけにはいきません。そこで、所有権とは異なるいろいろな決まりが作られているのです。
それがどのようなものなのかは、このテキスト全体を使って説いていくことになります。ただ、スタート地点としての「なぜ著作権が存在するのか」を理解しておくことは、全体の理解にあたっても重要です。
社会規範と法規範
著作権の問題は、敬遠されがちです。それが法律だからかもしれません。
一般に法律は難解で面倒なものとイメージされています。そして「一方的に押しつけられ、無理やり守らされるもの」と捉えられがちです。しかし、そのような把握は一面的なものにすぎません。
例えばあなたが果物屋さんに行って、200円の値札がついているリンゴを見つけ、買うことを決意したとしましょう。もし、いざ支払う段になって店主がこんなことを言い出したらどうでしょうか。
「いや、この値段はただの飾りでね。
あんた金持ってそうだから、500円じゃないと売れないな」
この店主は、(少なくとも日本では)激しい非難にさらされることでしょう。社会規範に反しているからです。人は社会生活を営むに当たって、いろいろな規範(ルール)を作っています。この店主の行動は、法にてらしても問題があるのですが、先後の関係で言えば社会規範の方が先にあって、それを追いかける形で法規範ができているのです。
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社会規範は、日常生活の大半の局面をしっかりカバーしています。法律というものを特に知らなくても、良識さえあれば問題なく平和に生きていくことができる理由はこれです。しかし、完全ではありません。例えば、家について、売買契約が済み、後は引き渡しを待つというところで肝心の家が地震で崩壊してしまった場合など、どうでしょうか。こんな場合に通用されるべきである社会規範は、そう主張する人の立場が買い主か売り主かによって、全然違ったものになってしまうでしょう。法律は、こういう場合であっても権利義務をはっきりさせられるよう、きちんと設計されています。また、社会規範は、トラブルを事前に防ぐという点ではかなりの効果を発揮してくれますが、いちど発生したトラブルを解決できる機能は、ほとんどありません。何の強制力も持っていないからです。法規範は、この点では言うまでもなく強力です。
著作権は、目に見えない権利です。そして、たいへん大きな財産価値を担うこともある権利です。時代の変化に応じた建て増しもあり、どうしても単純明解というわけにはいきません。しかし、無用に複雑だということはありません。奇妙に感じる部分には、必ずその理由があります。意味なく奇妙に見えるのは、自身がまだ理由に気づいていないだけなのです。
法律の考えは、抽象化と一般化で成り立っています。現実をそのまま使うのではなく、抽象的に考えるのです。当事者どうしのこの種の取引についても、まず権利義務の発生する一般類型を考え、個々の事例をそこに適用していくことになります。このリンゴを巡るやりとりは、売買契約の権利義務として捉えることになります。
契約は双方の合意だけで成立します。成立する時点は、一方が行う提案(=契約の申込み)にもう一方が応じた(=承諾)とき。これによって、売る側には「対価を受け取る権利と商品を引き渡す義務」、買う側には「対価を支払う義務と商品を受け取る権利」という形で、双方の権利義務が発生します。
この場面で言えば、200円という値札をつけて提示している行為自体が、契約の申込みとなります。そして「これください」と声をかけるのが契約の承諾です。この瞬間に双方の合意は成立、商品と対価の権利義務が発生します。にも関わらず店主は「いや、あんたが買い手なら、500円だ」と取引を拒んでいるのですから、契約上の義務を果たしていないことになりますね。買い手としては、契約の履行を強制する=リンゴを200円で売らせる権利があるのです。
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家の事例は、金額が金額なだけに深刻なものですが、法律の一般化はこうした場合も分け隔てなく働きます。
契約成立後、目的物の引き渡しが行われる前に、売り主の責任が問えない理由で目的物が滅失してしまった場合、売り主と買い主のどちらがリスクを負担するのかという問題は、民法では「危険負担」という枠組みで一般化しています。売り主がリスクを負う(=代金を受け取れない)場合を「債務者主義」、買い主がリスクを負う(=代金は支払わなければならない)場合を「債権者主義」と言い、現行の規定では例外なく債務者主義が採られています。家の事例でいうと、契約後も引き渡しが済むまでは売り主がリスク負担をすることになるのです。しかし、こうなったのは2020年の改正からで、それまでは、特定物売買(“この品物”と特定した上で行われる売買契約)に関しては債権者主義としていました。つまり、引き渡し前に家がなくなってしまったのにも関わらず、買い主の代金支払い義務は残ることになるのです。
こういう結果は誰にとっても不幸なので、売り手が業者の場合は売買契約で修正していましたし、何らかの形で保険もかけてありましたが、基本は以上の通りです。そして、家が天災で失われた場合も、リンゴがカラスに奪われた場合も、同じように一般化して適用するのが、法律のやり方なのです。
著作権を識る意義
他人の所有物を勝手に持ち去ったら「泥棒」です。これは法規範上犯罪とされる行為です。刑事罰の対象なりますし、民事法上も損害賠償責任を負います。社会規範上も強く非難される行為であることは、言うまでもありません。このように二重三重のペナルティが待ち受けているわけで、それが無断持ち去り行為への抑止力となっています。
著作権も、法規範的には同じです。無断での使用や複製は法律違反となり、民事上の損害賠償責任が発生しますし、刑事罰の対象にもなります。ただ、社会規範として考えてみると、少なくとも泥棒と同程度の悪事とは捉えられていないのが現実でしょう。
しかし、家電品や自動車などが有料であることに納得しているのなら、著作物の無断複製などが禁じられている理由も理解できるはずです。個々の技術を発明した人は、必ずしも経済的見返りを期待していたわけではありません。とはいえ、それが私たちの生活に届くためには産業として成立されている必要があり、それには、元手も必要なのです。新しい技術を搭載した製品が次々と現れるのは、発明を財産権として守るという社会の仕組みがあるからこそです。この点は、著作物も同じです。
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社会は簡単には変わりません。新しい状況が発生したときも、社会の常識がそれに対応するのはだいぶたってからです。法規範は、社会規範をふまえて作られるものですが、前後関係は常に同じというわけではありません。法規範が先行し、社会規範を導いていかなければならない場合もあるのです。他国の海賊版がときどき話題になりますが、その種の無断使用は、日本でも70年代ぐらいまでは当たり前のように行われていました。今それが一掃されているのは、それだけ社会が進んだからです。無断使用はよくないことだという社会規範が成立したからで、それは法規範によってリードされていたのです。
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今、いろいろな業界団体が、積極的に啓蒙活動を展開しています。しかし「『創作されたもの』が今後も出続けていくためには、著作権という仕組みが必要なのだ」という肝心の部分が見えていないと、どんな言葉も「既得権を持つ連中が、自己の権益を声高に主張しているだけ」に聞こえてしまうでしょう。コンテンツ産業は、社会的に大きな存在感を持っているため、ドラマ的視点では悪役です。しかし、コピーツールの作者や無断アップロードの常習者がロビンフッドのように映ったとしたら、それはやはり問題がわかっていないということではないでしょうか。
社会をよりよくしていくためには、皆の努力が必要です。著作権の問題は広いのですが、「『やってはいけないこと』リストの暗記」に陥ることなく、社会に責任を持つ市民の教養として取り組んでいきましょう。
法には、保護法益というものがあります。それは法にとっての唯一の直接的な目的です。別のいいかたをすれば、「法は、保護法益をまもるための文章である」といえます。一見特定の立場の人を守っているように見えても、それは反射的な効果に過ぎません。
多くの法律は第1条で目的を規定していますが、その最後の部分を読むと、保護法益がわかります。著作権法の場合を見てみましょう。
第一条 この法律は、著作物並びに実演、レコード、放送及び有線放送に関し著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする。
ここから解るように、保護法益は「文化の発展」です。著作者の生活を守ることではありません。それは手段にすぎないのです。条文の解釈も、最終的にはここに依拠します。もし著作者の保護が文化の発展を阻害する方向に働くのだとしたら、それは間違った法運用をしているということになり、裁判所は法の解釈を通じてそれを修正していくことになります。
もちろん完璧な法律などというものはありません。ただ、こんにちの法は市民のものです。ふさわしくないものなら、市民の手でそれを適正化していくべきなのです。
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