みんなの著作権 第2部 第6章 さまざまな著作物
▶著作権法は、非常に多彩な著作物の存在を前提にする一方で、小説や絵画のような個人が単独で創作するものを中心に考えられている面があります。ただ現代の著作物の中心は、会社でなければ作れないようなものです。本や新聞を読まない人は少なくありませんが、テレビを観たり音楽を聴いたりしないという人は、ほとんどいないでしょう。
▶ここでは、典型的なもの以外の著作物について、見ていきます。
複合的な著作物
著作権法には、さまざまな種類の著作物が類型的に述べられています。ただ、その類型と作品カテゴリーとの関係には、注意が必要です。小説や絵画のように、類型のどれかに該当し、他にはかぶらないという場合もあります。しかし、社会的に大きな存在感を持っているのにも関わらず、直接的な類型が存在しないものもあります。ゲーム、コミック、テレビ番組などは、明文での規定がありません。
これは、例示されている著作物類型が、実は要素単位で働くものであるということから来ています。著作権法に挙げられた類型は、排他的に働くものではありません。「XXの著作物」に該当するものが同時に「YYの著作物」でもある場合、そのどちらかが選択されるのではなく、局面に応じて両方が適用されるのです。例えばコミックの場合、「言語の著作物」と「美術の著作物」の両要素を持っています。絵だけを写すのも、セリフだけを抜き出すのも、どちらも著作権侵害になります。
テレビ番組の場合、ドラマやアニメは当然「映画の著作物」です。ただ、映画の著作物には「物に固定されている」という要件があるため、放送されている電波が直接そうなるのではなく、送信前段階および受信して録画した状態のものがそう扱われることになります。ドキュメンタリー番組やバラエティ番組も、多くは「映画の著作物」に該当するでしょう。ただ、スポーツ中継やニュース映像などの場合、著作性そのものが疑問です。とはいえ、放送されたものは著作隣接権の対象になるため、著作物に該当しなくても自由使用が認められるわけではありません。
ゲームソフトの場合、ソースコードはプログラムの著作物になるでしょう。含まれているCGアートは、静止画であれば美術の著作物に、動画であれば映画の著作物に該当します。サウンドは音楽の著作物となります。全体としては「映画の著作物」として扱われる場合が多いのですが、もっぱら静止画で表現されているようなゲームの場合は該当しません。
著作権法の用語の一部は、第2条の中で定義されています。映画の著作物については、第3項で補足的に次のように規定されています。
3 この法律にいう「映画の著作物」には、映画の効果に類似する視覚的又は視聴覚的効果を生じさせる方法で表現され、かつ、物に固定されている著作物を含むものとする。
これに該当するものであれば、いわゆる映画ではなくても、「映画の著作物」として扱われます。
ゲームソフトが映画の著作物として扱われるようになったきっかけは、80年代のアーケードゲーム『パックマン』をめぐる裁判からです。当時のゲームセンターはまだ遵法意識が薄く、海賊版の筐体も当たり前のようにおいていました。『パックマン』の開発元であるナムコ(当時)は、それらを駆逐するために「ゲームは映画の著作物である」という論理を組み立てました。映画の著作物であれば上映権を主張することができ、それによって店頭で顧客に提供する行為に対する差し止め請求が出せるからです。海賊版を作った業者だけではなく、それを客に提供していたゲームセンターもあわせて訴えた裁判は、一審判決でナムコの主張が認められ、その後和解が成立しました。そして、「ゲームは映画の著作物である」という先例が、これで確立したのです。
★パックマン事件
プログラムでの例外
コンピュータのプログラムは、著作物として保護されますが、次のような点で一般ルールと異なってきます。
- 1)所有者に複製が認められている
- 2)同一性保持権が制限される
- 3)「法人名義で発表」がなくても、法人著作が成立する
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ソフトウェアは、伝統的にはフロッピーディスクに記録された状態で供給され、また運用もされていました。ただ、これはたいへん脆弱なもので、ちょっとしたことで簡単に破壊されてしまいます。また、プログラムにはバグがつきものですし、取り巻く社会環境の変化(例えば消費税率アップとか改元とか)にともなって手直しを要することもしばしばあります。そこで、クラッシュに備えてバックアップをとっておく権利(1)や、ユーザー自らソースを書き換えて不具合に対処できる権利(2)が与えられているのです。なお3の特則は「名義を出すとは限らない」特徴から来ています。例えば家電品に組み込まれている制御プログラムなど、全く表示されないのが当たり前です。こういう場合に法人著作が成立しないのでは困るため、このような特則が設けられています。
なお、プログラムの著作物について、注意することがあります。保護の対象は、動作しているソフトウェアではなく、あくまでもソースコードの方だということです。ソフトウェアは本来工業製品ですが、プログラムという言語的な手段で作られることから、著作物としても保護されています。これを逆に言えば、言語的な手段でない部分までは、その保護は及ばないということです。アルゴリズムやデータ構造などには及びませんし、表示される画面についても、他の著作物(例えば絵画)に該当する場合でない限り、著作権法の保護の対象ではありません。
編集物とデータベース
雑誌や百科事典など、記事や図版によって構成されている出版物では、内容を作った個々のライターやイラストレーターはそれぞれの担当において著作者となります。しかし、全体としての雑誌や事典そのものに権利の発生する余地がないというのでは、バランス上失当です。そこで著作権法では、十分な創作性があれば、著作物として認めるようにしています。これを、編集著作物といいます。認められる条件は、「素材の選択や配列によって創作性を有するものであること」です。単に編集されているだけでは、認められません。
また、コンピュータ上に大量のデータを集め、検索によって利用できるようにしたシステムをデータベースといいますが、これも著作物として保護される場合があります。こちらを、データベース著作物といいます。データベース著作物の条件は「情報の選択または体系的な構成によって創作性を有するものであること」です。
このふたつの規定は一見するとよく似ていますが、編集著作物の規定にわざわざ「データベースに該当するものを除く」とあり、排他的に分けられています。また、成立が認められる条件も峻別されています。
★「ケイコとマナブ」事件
編集著作物は、かなり厄介です。条文の規定は本文に書いたとおりですが、権利の主体がデザイナーなのか編集者なのかがはっきりしないのです。
文書が作られるとき、そこには素材(文章、図版など)があります。全体の方針を考え、必要な素材の手配をするのが編集者の仕事です。一方で、デザイナーは、美しさと使いやすさを両立しつつ、文書そのもののテーマを実体化すべく、それらの素材を実際に配置します。
判例では、海外の新聞に対し、各記事の日本語抄訳版をオリジナル紙面と同じレイアウトで作成した刊行物について、「新聞の編集著作権に対する翻案権侵害」を認めたケースがあります。ここからすると主体はデザイナーのように見えるのですが、その一方で、著名なブックデザイナーによるマスターデザインの権利性をばっさりと切り捨てた判例も存在します。逆に、方針と素材の手配の部分だけで構成されている、判例集の編集委員の仕事に、編集著作権を認める判決も存在しています。
このように悩ましいのですが、東大で著作権を教えている教授ですら、起こした裁判で敗訴してしまうぐらいですから、しかたないですね。試験対策的に「編集著作物というのがあって、素材の選択や配列によって創作性を有するデータベースじゃないものに認められる」と丸呑みしてしまうしかないでしょう。
★「知恵蔵」事件
★「著作権判例百選」事件
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実はデータベース著作物は、“間違って残ってしまった”著作物類型です。
データベースの作成には、主にデータ収集と入力のために、たいへんな労力がかかります。そこでこれを保護しようという考え(これを“『額に汗』の理論”といいます)があり、英国などではこれに基づいてデータベースに著作権を認めています。
外国でデータベースが著作物として認められている以上、日本法にも対応する規定を設けておく必要があります。しかし日本法の考えでは、そもそも著作物になるのかどうかは保護に値する創作性があるかどうかにかかっているのであって、かけた手間は関係ありません。著作権として位置づける以上、素朴な“『額に汗』の理論”は通用せず、著作権のルールに従って規定する必要があります。そこで条文では「データベースでその情報の選択又は体系的な構成によつて創作性を有するものは、著作物として保護する」という、苦しい規定をおくことになりました。ただ、情報インデックスや全体のシステムが独創的なデータベースなど、使いづらくてしょうがありませんね。結局、実用的なデータベースは、著作性が認められるだけの創作性を持つことが困難なのです。
裁判例でも、「甲が乙の商品に含まれるデータベースを無断で複製して自社商品に含めた」といった事例でしばしば主張されますが、NTTのデジタル版電話帳に認められた例はあるものの、多くが否定されています。ただ、このような場合だと民法の不法行為責任は問えるため、「無断でコピーしてもいい」ということではありません。
★NTT「タウンページ」事件
映画の著作物
映画の著作物は、誰がどう権利者になるかという点で、変則的です。
著作者は、全体として作った者で、監督やプロデューサーなどが、実態に応じて該当します。ただし、同時に「著作権は……映画製作者に帰属する」と規定されているため、そちらに自動的に移ることになります。この“映画製作者”というのは、基本的に映画会社です。なお、著作者人格権は一身専属の権利であるため、移転することなく、著作者のもとに残ることになります。
映画は、大量の人員によって作られる共同著作物という性格を持っています。著作権法の原則でいえば、共同著作の場合は全員が著作者ですが、ときには数百人にも及ぶため、現実的ではありません。一方、制作費を負担する映画会社に報いる必要もあります。そこで、全体として作った者一人に著作者としての立場を代表させた上で、著作権の財産権部分を映画製作者に帰属させるという仕組みを作っているのです。
★スウィートホーム事件
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なお、この仕組みができた当時と現在とでは、映画のビジネス的な仕組みは大きく異なっています。当時は、スタジオから配給までの全プロセスを映画会社が垂直的に保有していました。しかし今では、実際の作品を作る「制作会社」と、費用を負担し商品として展開する「製作会社」に分業しています。後者も単独の会社であるとは限らず、映画ごとに複数の会社が集まって作られる「製作委員会」になっていることが普通です。実際には、制作会社が企画を立ててスポンサーを探し、集まったスポンサーが便宜上「製作委員会」を作って著作権の主体になるという形が一般的でしょう。
また、映画には「頒布権」という特別な権利があります。頒布というのは、売ったり配ったりすることですが、著作者の独占的権利としてこれをずっと主張することができるのです。結果として、複製物の保有者がそれを他へ転売することを、その保有が合法か違法かに関わらず、禁止することができます。これは映画独自のビジネス形態である配給制度を維持するために設けられたもので、配給制度とは無関係な場合(家庭用に大量生産されたビデオグラムやゲームソフトなど)には適用されません。
配給制度とは、簡単に言えば、「量産&流通業者である配給会社が、興行主(映画館)と売り上げを折半し、手数料をとってから残りを製作会社に渡すしくみ」です。
映画というビジネスは、演劇に近いところがあります。観客は、作品としてのおもしろさに対してお金を支払います。そのため、おもしろい作品を作れば観客がたくさんやってきてお金がたくさん入るという仕組みが、製作者にとってのインセンティブに繋がります。
ただ演劇とは違い、映画はフィルムという「物」に固定されています。民事法の原則どおりにすると、フィルムの所有者であれば、それを自由に利用できることになり、製作者へのインセンティブは働きません。またこの状態が野放しになっていれば、フィルムの二次譲渡も行われてしまい、製作者はかけた費用の回収の途が全く断たれてしまいます。そこで、著作権法の趣旨から配給制度を守る必要があり、「消尽なしの頒布権」という権利が認められたのです。
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条文を見る限り、映画の著作物であればすべて適用されるように見えますが、判例によって修正されています。
これは、ゲームソフトの業界団体が行った、中古ソフト販売業者との抗争に由来します。中古ソフトビジネスは、ゲームの普及に伴って自然発生的に登場してきた業態ですが、ソフト会社にとっては目の上のこぶのような存在です。そこで、90年代の後半に、『パックマン』事件で確立した「ゲームは映画の著作物である」見解に基づき、“違法な中古販売を撲滅しよう”キャンペーンを展開したのです。
そのときの主張を三段論法式にまとめると、次のようになります。
- 大前提:ゲームは映画の著作物である。
- 小前提:映画の著作物には頒布権があって二次譲渡を差し止められる。
- 結論 :ゆえにゲームでも中古販売は禁止できる。
結果としてこれは裁判になり、最高裁まで争われた結果、合法とする判決が出されるにいたりました。論旨を簡単にまとめると、こうなります。
- 大前提:ゲームは映画の著作物である。
- 小前提:映画の著作物は頒布権があるが『消尽なし』が認められるのは配給制度を守る必要があるものに限られる。
- 結論 :ゆえにゲームの中古販売は差し支えない。
この判決の注目点は、射程の広さです。消尽なしの対象から外されるのは、ゲームソフトだけではなく配給制度と無関係なもの全体で、その結果、家庭用ビデオグラムにも広く適用されることになってしまったのです。それまで頒布権の存在を前提に強気ビジネスを展開していた映画産業としてはとんだとばっちりですが、現実のビジネスはその後の方が活性化しています。
★中古ゲームソフト事件
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