みんなの著作権―オンライン専用版―
第2部 じっくり編
8.著作権の活用

みんなの著作権 第2部 第8章 著作権実務、著作権登録、

▶著作権は、権利の実体を定義していますが、実際の仕事でどう使うのかは、法の条文だけを見ていても解りません。
▶ここでは、産業での活用を前提に、どのような使い方があるのか、そしてそれに対する法制度がどうなっているのかを、簡単に解説します。また、外国との関係についても、合わせて扱います。

実務での扱い

 著作者が個人の場合でも、著作物が産業的に利用されるときは、何らかの会社が実施する場合がほとんどです。このような場合、実務では「ライセンス」と「買い切り」という二種類の契約スタイルがあります。
 ライセンスは、条件に基づいて使用を認めるというもので、法的には「許諾」です。著作者が持つさまざまな権利のどれがどのように許諾されるのかは契約によって異なり、実質的にそのまま移転しているのと変わらないような場合もありますが、著作権は作者の側に残ります。
 買い切りは、著作権をそのまま譲渡してしまうものです。買い切りが行われれば、もとの著作者には財産権としての著作権はなくなります。ただ、権利のうち翻案権・翻訳権だけは譲渡の目的として特に挙げられていない限り移転しないものとされています。著作者人格権は、譲渡不可能なので、そのまま残ります。
 実務では、業界慣習と相互の力関係に基づいて決められます。出版ではロイヤリティとして定価の10%程度を支払うライセンス契約が通例ですが、ゲームなどでは、有名なクリエイターなどの場合を除き、買い切りがふつうです。なお、譲渡の場合でも翻案権等を対象外とする法の規定は、利用する会社としては不便なため、通常は契約書の中に「第二十七条ないし第二十八条に規定する権利も含む」というように、特掲を行います。著作者人格権についても、「主張しないものとする」という形で、契約書中で明記することが一般的です。

 かつて出版社などでは、契約書が取り交わされることはなかったといいます。作家と担当編集者および編集長の人間関係が、言葉を担保していたと言うことでしょう。著作権法には特に条件を決めずに出版権を設定した場合の準則が規定されていますが、このことを裏返せば、出版権契約ですら口頭で済ませていたことが伺えます。
 ただ、当時の実務はそれぐらい単純だったとも言えるでしょう。書かれた原稿を本にして出版するだけのことなら「何月何日に本を出す、初版は5千部で、印税は翌月末払いだ」で済むからです。しかし、現代のコンテンツは事情が違います。コミック化やアニメ化を行い、さらにそれを深夜アニメ枠で放映しつつDVDを発売し、一方でキャラクターグッズを展開する…とても口頭で契約しきれるものではありません。
 こんにちのメディア産業では、どの分野であれ、契約書を取り交わさずに済ませてしまうなどということは考えられません。ただ、適正に行われているとは言い難い状況です。契約は双方の合意で成立するものですが、立場の強い一方の当事者が一方的に作成したものを、交渉の余地なく他方に押しつけるというやり方が、実務的には大多数でしょう。そして、立場の強い当事者が必要以上に権利確保に敏感になってしまった結果、他方にとっては屈辱としか言えないような内容の契約書をまとめてしまうことがあります。

 民事法には契約自由の原則というものがあります。法の強行規定(それに反する取り決めが無効とされる規定)に抵触しなければ、公序良俗に反する内容でない限り、どんな内容を盛り込んでも自由です。
 とはいえ、何でもできるというわけではありません。最初から不可能な契約は無効ですし、内容によっては「有効だが、法的保護には値しない」というものもあります。
 そして重要なのが、契約自由の原則の大前提となる、自由意思です。契約は双方の合意によって成立するため、この合意が自由意思に基づくものとして十分でない場合は、拘束力が否定される場合があります。市販されている内容印刷済みの契約書を使った契約で、これが認められた例があります。知財分野でも、各種団体が契約書のひな形を作成していますが、それをそのまま利用してしまうとここに該当してしまうこともありうるため、注意が必要です。
 また、コンテンツを提供する契約によく盛り込まれる「著作者人格権は主張しないものとする」という条項の有効性には、疑問があります。というのも、「著作者人格権が放棄できない」という強行規定(そうでなかったらナンセンスですね)を修正する内容になっているからです。
 ただ、現実問題として、これ以外の対処方法がないのも事実です。クライアント側としては、この契約を通じて得た「著作者人格権を主張されない権利」について、権利の濫用になるような使い方をしなければ、ただちに有効性が否定されるということもないでしょう。また著作者側の「どうしても譲れない部分」(例えばスタッフクレジットへの記載など)をあらかじめ確認した上で、それについては覚え書きとして別途まとめるというような対応が現実的と思われます。

外部団体へ委託する

 小説や映画など、相応の規模を持ち、それ自身で自己完結しているような作品カテゴリーの場合は、利用については個別の契約を結ぶことが前提になるでしょう。しかし一方で、音楽のように繰り返し反復利用される作品カテゴリーもあります。個々の利用のビジネス規模は小さいため、個別の契約にはなじみません。このような著作権を有効活用する仕組みとして、著作権管理団体による管理が行われています。
 著作権管理団体は、著作者から著作権の委託を受け、利用許諾を代行します。著作者にとっては、煩雑な徴収業務や無断利用の監視などをいっさい任せられることが、利用者にとっては、団体が指定する使用料を支払えば個別に交渉しなくても使用許諾が得られるということが、大きなメリットになります。
 著作権の委託には、信託と委任があります。信託は、権利を移転させるもの。この場合、著作者は管理団体に著作権を譲渡します。管理団体の力がフルに発揮できる点はメリットですが、著作者としては自分のものではなくなってしまうため、自由に使用できないというデメリットがあります(自身が演奏する場合でも、使用料を監理団体に支払う必要があるのです)。これに対し、権利の移転はせず許諾だけを代行させるのが委任です。著作者としては特定の相手に許諾を出すようなことも可能ですが、管理団体としては事務が煩雑化する上、ビジネス展開上も不自由があって、好ましくありません。団体によっては、委任方式での管理をしていない場合もあります。
 なお、著作権管理団体として活動するためには、所定の要件を満たした上で文化庁に登録されている必要があります。具体的には著作権等管理事業法によって定められています。

 著作権の委託が最も進んでいる分野は、音楽です。現行法が成立したのは2000年ですが、それ以前の、「著作権に関する仲介業務に関する法律」によって認可制となっていた時代は、音楽以外で活発に活動している分野は見あたらないような状態でした。この体制下で独占的に業務を行っていたのが、日本音楽著作権協会(JASRAC)です。競合他社が現れた現在でも、高い地位を保っています。
 また音楽については、管理団体であるJASRACとは別に「音楽出版者」という業態が存在しています。実務的に言えば、ここで行われているのは二重の信託です。音楽出版者は、著作者との信託契約にもとづき、著作権の譲渡を受けます。その上でビジネスとして展開していくわけですが、その一環として、JASRACなどとの信託契約も行います。利用者が支払うお金は、一次的には著作権管理事業者の元に行き、そこから著作権者としての音楽出版者に行き、著作者に支払われることになります。形式上、著作権は譲渡されているのですが、信託契約が終われば著作者の元に戻るので、「権利を取り上げられる」ということにはなりません。
 音楽出版者は、名前だけをみると出版社の一種のようですが、元々普及していた欧米での呼び名“music publisher”を翻訳した結果で、別に出版業をしているわけではありません(している場合もありますが)。つまり『音楽/出版者』ではなく『音楽出版/者』と考えればいいでしょう。なお、ここでやりとりされる権利(=音楽の著作権)を「出版権」と呼ぶことがありますが、これは日本の著作権法で定める出版権とは関係ありません。


 音楽出版者 「音楽出版」ではない点に注意しましょう。

 2000年の著作権等管理事業法によって管理事業の立ち上げが容易になり、多くの団体がこの事業に参入しました。先に、個別の契約になじむカテゴリーの典型例としてあげた小説も、実際には社団法人日本文芸家協会が著作権管理事業を行っています。なおこの団体は作家や劇作家の職能団体で、著作権管理のために作られた団体ではありません。ここに限らず、さまざまな分野の職能団体が同種の事業に参入していて、むしろそれがない分野を探す方が難しいぐらいです。とはいえ、“その協会の会員なら全員著作権を信託済み”などということもなく、数の多さが使いやすさを約束している訳ではありません。
 また、ゲームソフトや映画など、産業的に大きなものとなる著作物では、著作権の証券化という方式も、現実的な選択肢になってきています。
 現在映画では、制作費を負担するスポンサー企業が著作権(財産権)の主体にもなる、製作委員会方式が一般化しています。ただこれは、純粋な投資と言うよりは、その映画に対する優先的な利用権(例えばジブリ作品では日本テレビが毎回『地上波初放送!』をやっていますね)を含めたビジネス形態であり、一般投資家を取り込めるようなものではありません。また、参加企業にとっては投資額が大きくハイリスクである点と、(組織化の手法にも寄りますが)持分の譲渡が自由にできない点がネックです。
 そこで、著作権を信託財産にした上で、信託受益権を分割して受益証券として投資者に販売するという手法が、注目できます。著作権管理事業が行っているのは管理的信託ですが、こちらは「資産の流動化に関する法律」(資産流動化法)の特定目的信託として行うことになります。

著作権フリーとは

 著作権は、財産的権利については放棄できるものと考えられています。この場合は、保護期間の終了した著作物同様、誰もが自由に使用できる、パブリックドメインの著作物となるでしょう。一方で、放棄はしないものの、誰に対しても自由な使用を許諾することで、同じ効果をもたらすこともできます。
 ソフトウェアや素材データなどでよく使われる「著作権フリー」ですが、本来はこのどちらかに該当する場合をいいます。しかし、現在では使われる意味が拡大しているため、注意が必要です。
 元々、自由/無料使用の分野をリードしてきたのは、ソフトウェアでした。著作権を放棄することでパブリックドメインとしたソフト「PDS(パブリックドメイン・ソフトウェア)」や、自由使用を許諾する「フリーソフト」「フリーウェア」が、“タダで使えるソフト”として、コンピュータの普及と共に広く一般化していきました。
 こうした動きの一方で、「フリーライセンス」という方式も登場してきます。組織として制定したライセンス規定があり、それを認める人にだけ使用を許諾するというスタンスをとって、ソフトウェアを公開するというものです。代表例としてGNUプロジェクトが挙げられます。GNUは「ソフトウェアはフリーであるべきだ」という主張を持つ人たちによって作られました。ここのライセンスであるGPL(ジェネラル・パブリック・ライセンス)では「再配布物のライセンスに制限を加えることを許さない」という条件で、実行・複製・修正・再配布を認めています。つまり、ソフトウェアを単に利用するだけならそのまま無料で使うだけですし、元のプログラムに手を加えたものを自身の著作物として公開することも、自らもフリーライセンスとして再配布するのであれば許されるのです。このライセンスは、GNUの組織に属している人だけのものではありません。誰もが、このライセンスに基づいて自分のソフトを公開することができます。
 ソフトウェア以外では、クリエイティブ・コモンズの活動があります。ここのライセンスは、著作者が、「氏名表示」「非営利目的限定」「改変の制限」「派生物のライセンス継承」の4項目について要求するかしないかを選択して、使用条件とすることができるものです。

 GNUなどの活動は社会運動でしたが、あくまでもビジネスモデルとして無償使用のライセンスを与えるという場合もあります。「一定の場合に、使用料請求権のみを放棄する」という宣言がなされた著作物が、広く登場しています。
 この場合、ライセンス規定はビジネスモデルに基づいて異なっています。例えば「商業利用の場合は有償」であったり、「商品Aの正規ライセンスの保有者に限定して無償」であったりというものです。また、機能が制限された無償版とフル機能を持つ有償版を並行して公開する方法(フリーミアムとよびます)なども、インターネットでは積極的に展開されています。
 これらは総じて「ロイヤリティー・フリー」といいます。

 利用者としては、そのライセンス規定を理解していることが必要です。マスメディアでは、区別することなく「著作権フリー」と呼んでしまう場合があるためです。フリーライセンスと信じて使っていたソフトやフォントが、実は非商用限定のロイヤリティー・フリーだった場合、著作権の侵害となってしまいます。

 日本法には、著作権を放棄するための具体的な手続規定がありません。そのため「日本では、著作権の放棄はできない」とする考え方もあります。本テキストでは、財産法一般の原則から、放棄可能の立場で解説しました。ただ現実問題として「私はこれの著作権を放棄する」と宣言してある著作物の著作権を論じても、禅問答にしかならないでしょう。
 なお、一度作られている以上、著作者人格権は存在しています。これは、放棄ができてもできなくても変わりません。つまり、他人が勝手に自分の名義で再公開したり、内容を作り替えたりすることは、許されないということです。そして、ここにおいて、GNUなどのフリーライセンスとの違いが鮮明になってきます。PDSでは許されない内容の変更を許容するために、フリーライセンス下での公開の存在意義があると言えるからです。

著作権の登録

 著作権の発生には何の手続きも必要ありません。しかし、権利というのは目に見えないものなので、その存在をはっきりさせる必要が生じてくる場合もあります。そのためにあるのが、登録制度です。次の内容について、登録の対象になります。

 登録は、プログラムの著作物以外は文化庁に対して行います。ただ、著作権があるというだけではだめで、公表したり,著作権を譲渡したなどという事実があった場合にのみ可能です。プログラムの著作物は、財団法人ソフトウェア情報センターに対して行います。
 登録の主な効果は、取引の安全です。例えば著者による二重譲渡があった場合など、登録を持っている方が正当な権利者となります。また、登録にある著作権者や発行年月日を信じて行った行為は、合法なものとして扱われます。出版権に関しては、登録をしていないと、第三者に対して主張できる物権的な権利としては存在できません。
 なお、1のメリットは著者の側にあります。匿名の著作物の保護期間は公開時から起算しますが、1があった場合は、実名の場合と同じで、著者の死去からの起算となります。

 登録制度の目的は、目に見えない“権利の移転”をはっきりさせることにあります。
 登録を行うと、文化庁にある登録原簿に記載されます。著作権法は、登録原簿について「なんびとも閲覧できる」と定めています。そこで、取引をする人はまず原簿を閲覧し、その権利の内容を確認しておくことができるわけです。このようなしくみを「公示制度」といい、不動産登記など、民法で広く採り入れられている方式です。
 ただ、この制度がトラブル防止に役立っているかというと、難しい面があります。
 実例として、2008年に立件された、有名ミュージシャン兼音楽プロデューサーであるK氏による詐欺事件があげられるでしょう。
 この事件は、K氏が知人の資産家に対して、「自分の全楽曲の著作権を10億円で譲渡したい」と持ちかけたことによるものです。K氏はプロのミュージシャンなので、当然音楽出版者と契約しており、著作権は全てそちらに譲渡しているのにも関わらず、こういう提案をしたわけです。刑事事件の判決文によると、全806曲がJASRACにK氏の著作として登録されていて、うち未発表曲を除く793曲は慣行に基づいて音楽出版者に譲渡されていたのですが、K氏はその中の298曲を自分の会社などにも譲渡(この時点で二重譲渡)し、それらの一部について著作権登録原簿に登録していたとのこと。被害者は、JASRACの登録と文化庁の登録を見て、K氏が真正な著作権者だと信じたのでしょう。
 しかし、そもそもなぜ二重譲渡や登録ができたのかというと、音楽出版者が権利の譲渡を登録していなかったからです。理由はわかりません(単純に費用の問題かもしれません。移転の登録には、1件あたり18,000円かかります)が、しないことも含め慣習だったのでしょう。
 著作権の登録は、権利の移転などの原因があったときに行われるもので、単に著作したというだけでは登録できません。結局、取引の時点では確認しようにもまだ原簿に記載されていないということで、これでは「まず登録簿をチェック」という取引習慣もできるはずがありません。
 現行の制度も、日本における現場の実際などを勘案して、バランスをとって作られたものと思います。しかし、現場に近いところにある制度は、絶えない再検討が必要です。

トラブルの解決

 著作権法ではさまざまな権利を定め、それを侵害する行為を禁止しています。ただ、権利があるからといって、権利者が侵害に対して自分自身で取り返していいというわけではありません。それは「自力救済」といい、法で厳に禁止されている行為です。近代的な法秩序では、直接的な強制力を持つのは、司法機関だけです。つまり、裁判所によって認められた最終決定があった場合、その決定に従って強制的に事を進めることが許されるのです。
 裁判所の最終決定の代表格は、判決です。ただ、民事訴訟の場合、当事者同士が合意すれば、裁判はいつでも中止することができます。これを「和解」といいます。合意した内容で和解調書という文書が作られ、確定判決と同じ効力を持ちます。
 また、裁判以外にも、「調停」と「仲裁」という、紛争解決手段があります。基本的に当事者どうしが第三者を交えての話し合いをおこなって解決策を探っていくというもので、裁判所でおこなわれるものは、結論が確定判決と同じ効力を持ちます。こうした解決手段を裁判外紛争解決手続(ADR)とよび、近年重要度が高まっています。裁判所だけではなく、行政機関の他、関係する法律(通称、ADR促進法)の認定を受けた民間団体も行っています。著作権でも、文化庁による「あっせん」制度があり、両当事者合意の上で申請するか、あるいは当事者の一方による申請に対し他方が同意することで、始められます。

 裁判は、裁判所に訴えを起こすことで始まります。刑事訴訟の場合は検察官だけが起訴できますが、民事訴訟では誰もが可能です。なお、訴えた側を「原告」といい、訴えられた側を「被告」といいます(“被告人”ではありません。それは刑事訴訟の用語です)。
 日本の司法制度は、三審制をとっています。一審の判決に不服があった当事者は、ひとつ上の裁判所に対して改めて訴えることができます。そして二審の判決に不満があった当事者は、さらに上の裁判所に訴えることができます。一審判決に対して行う上訴を「控訴」、二審判決に対して行う上訴を「上告」といいます。このような三審制を支えるため、裁判所も階層構造になっています。基本となるのは、全国を細かく分割して設置される地方裁判所(地裁;支部も含んで約250ヶ所)です。この上に高等裁判所(高裁;13ヶ所)があり、さらにその上に最高裁判所(最高裁)があります。
 一審の訴えは、地裁またはさらにその下にあって少額事件などを担当する簡易裁判所(簡裁)で起こしますが、被告の居住地か、契約上の義務違反や権利侵害行為のあった土地を所轄する裁判所に対して行うのが原則です。ただ、知的財産権については、専門性の高さと迅速さの必要性から、例外的に扱われる場合があります。技術型事件について、一審は東京地裁または大阪地裁、二審は東京高裁内に設置されている知的財産高等裁判所(知財高裁)が管轄となるのです。技術型事件は主に特許ですが、著作権も、プログラムの著作物について対象となっています。また、東京地裁に対して訴えられた事件の控訴審は、非技術型も含め知財高裁が担当します。なお、管轄裁判所は、双方の合意があればどこにでも設定できます。実務では、契約書の中に所轄裁判所に関する事前の合意を盛り込んでおくことが、よく行われます。

 訴訟というのは、費用も時間もかかるもので、なるべく避けようとするのが良識ある人間の本音でしょう。
 裁判費用は、負けた側が負けた度合いに応じて支払うというのが、民事訴訟のルールです。具体的な比率は判決の中で宣言され、いわばこれが「どの程度の勝訴(敗訴)か」の指標になってきます。ただ、これは裁判所に払う費用のことで、弁護士依頼に必要な料金は含まれていません。訴訟の請求額の中に組み込んでおくこともできますが、認められる額は、実際に支払う報酬に比べるとかなり控えめなものなので、「勝つには勝ったが、弁護士に払ったら何にも残らなかった」ということも、笑い話ではありません。
 結局、重要なのは、どうやってトラブルを未然に防ぐかということです。契約書をきちんと整えるのは当然で、そのためには元になる権利の性質や、予想されるトラブル原因などを、あらかじめ把握しておく必要があるでしょう。こうした取り組みを予防法学といい、こんにちの法務では、争訟よりも大きな重要度を持っています。その際、取引上優位な立場にある側が一方的に有利な条件を押しつけるのではなく、将来にわたる協力関係を双方の合意で構築していくという態度が重要でしょう。それには、契約のことしか知らない弁護士ではなく、知財について理解している弁護士を確保する必要があります。
 とはいえ、手間と費用を前にした消極性が「どうせ裁判になるわけじゃないし」という、法と権利を軽視する風潮をもたらしてきたのも事実です。近年進められている司法改革には、そういう面での見直しも含まれているため、法的手段も以前ほど敷居の高いものではなくなってきています。伝家の宝刀は、抜いてこその刀でもあるのです。

 著作権法では、第120条で差止請求権を定めています。

第120条 著作者、著作権者、出版権者、実演家又は著作隣接権者は、その著作者人格権、著作権、出版権、実演家人格権又は著作隣接権を侵害する者又は侵害するおそれがある者に対し、その侵害の停止又は予防を請求することができる。
2 著作者、著作権者、出版権者、実演家又は著作隣接権者は、前項の規定による請求をするに際し、侵害の行為を組成した物、侵害の行為によつて作成された物又は専ら侵害の行為に供された機械若しくは器具の廃棄その他の侵害の停止又は予防に必要な措置を請求することができる。

 これによって、権利侵害に対して、その予防や排除に必要なことを要求する根拠が得られるわけです。なお、いわゆる損害賠償ですが、民法第709条によって「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う」と定められていて(この条文を“不法行為”と通称します)、これを根拠として請求することになります。また、契約を結んだ相手に対しては、債務不履行を根拠とする損害賠償も請求できます。

 裁判は、ルールに則って行われる闘争です。市民としては、裁判官が独自であれこれ調べた上で正義に基づいて判断する大岡裁きスタイルを期待してしまいますが、実際の民事裁判は、対立する双方の主張を裁判官が第三者として判断する、「当事者主義」という考えに基づいて行われます。
 当事者主義のもとでは、原告と被告はそれぞれ対等な立場に立って、自己の主張をおこないます。主張には、証拠が必要です。そして相手方の主張に対しては、反証することもできます。こうして行われるやりとりを元に、裁判官は事実を認定し、それへの法律の適用を行い、判決を下すのです。
 このための重要概念が、挙証責任です。文字通り証拠を挙げる責任のことで、これは何かを主張した側にあります。「著作権を侵害された」というのなら、原告はその証拠を挙げなければなりません。
 ここで、著作権の独自の事情として、次の4つの条件が出てきます。

  • 1)侵害の対象が著作物であること
  • 2)その著作物について、原告が著作権を持つこと
  • 3)侵害行為の存在
  • 4)侵害行為が原告の著作物に依拠していること

 そもそも著作物でないものに対しては、著作権法に基づく請求はできません。また著作物であっても、既に権利が譲渡されているとか、保護期間が終了しているといった事情があれば、訴えることもできません。1や2はこのことを言っています。
 3と4は、盗作騒動がよく空騒ぎに終わってしまう原因でもあります。例えば、事実に依拠して作られたノンフィクション作品の著者が、著作物の“事実”の部分を参照して書かれた小説を訴えるような場合、1や2は肯定されても侵害行為ではありませんから、否定されます。これが3の意味です。そして4は、知財の中でも著作権だけが持つ特徴です。簡単に言えば、「意図的に真似た」場合でなければ翻案権などの侵害にはならないと言うこと。「別個に作られたが、たまたま似てしまった」場合は4が否定され、訴えも退けられることになります。

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